多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

気が合う人、教育について語り合おうぞ!学習ソングも作曲中。

道徳科を学び直す 「自己満足に終わらない 学び手主体の授業」朝倉 喩美子氏

道徳科の基本を学びたい、何か手頃な記事や本はないかな…と思っていたら、

「教育新聞」のお試し無料期間中にこの記事を見つけ、引き込まれた。

www.kyobun.co.jp

www.kyobun.co.jp

(2)以降は有料会員限定記事です。

 

まだ(3)までしか出ていない。筆者、朝倉 喩美子氏の著書を読みたい、そう思っていたら、

筆者紹介の欄に、明治図書の雑誌「道徳教育」への寄稿があったので、そちらを即読み。1ページ10円とは安いものです!

www.meijitosho.co.jp

 まず、OECDが示したこれからの時代をよりよく生きるためのキー・コンピテンシー(ソフトスキル、能力)の話から入っているところに惹かれた。

これは、学びのプロジェクト化、PBL(Project Based Learning)を行っているアメリカの高校の様子を描いたドキュメンタリー映画、「Most likely to succeed」 にも出てきたもの。私もこれついては過去に書いた。

koukishinousei445.blog.fc2.com

(追記 2020年2月8日にも書きました。)

shochandoeeeesu.hatenablog.com

 

4つのうち1つのコンピテンシーが「考える力(内省力、思慮深さ)」だという。

 これは言わずもがな「道徳性」と大きく関わっていて、道徳科も大きく関わっている。

内省・思慮は、それ自体が主体的な営みである。また、多面的な比較検討を必要とする。個々の内面で行われるこの自律的な営みをより円滑に育てることこそ道徳科の役割であるとし、いかにしてそれを可能とするかについて、12個のポイントを述べている。

 

私にはこのいずれもが重く響いた。

苫野一徳氏の言う、授業を「茶番」にしないようにすることとこれとは重なるものだ。

 

それを具体的には授業でどう実現するか。それを今後の課題としたい。

 

特に、「主体的」「深い学び」

「発問」「吟味する過程」「振り返り」が自分の中に課題意識としてある。

上記の記事の中で言えばこの部分。

 

④価値の自覚=比較検討+自己決定

要約すると、

「価値観の高低の混じった気づきが集まる。それらを比較検討しながら再考する過程を経ることで、自分自身の気づきの幅を広げたり、確信に変えたりすることができる。

終末等では自分なりの帰結した考えを交流させる等の時間的余裕もほしい。」

 

これをどう実現するかだ。 

なぜ「読み物で心情追求」授業が一般的になったのか 豆知識

読み物教材を通して心情追求する一般的な授業スタイルに疑問を抱いていた私ですが、

最近、同僚の授業を見る機会が多く、中にはその良さを感じるものがいくつもありました。

 

「心情追求スタイル」に納得いかないのではなく、

①深まりや気付きのない授業に納得がいかないのだ、

②「心情追求スタイル」一辺倒であることに納得がいかないのだ、

 

と改めて気付いた次第であります。

 

それと共に、

私は、「心情追求スタイル」の真髄、基礎の基礎も大して分かっていないのだと感じました。

この際、基礎の基礎から勉強したい!

 

そう思っていたら、

以前買っていた「道徳教育 2016 9月号」の特集記事に

「『心情を追求するスタイル』の奥深さを考える」とあるのを発見。

 

道徳教育 2016年 09月号

道徳教育 2016年 09月号

 

 明治図書オンラインでは電子図書なら今すぐ読めます。

www.meijitosho.co.jp

その巻頭記事が興味深かったので紹介します。

道徳教育 2016年9月号/解説/「心情を追求する授業スタイル」とは 明確な指導観に基づく道徳授業の構想「心情を追求する授業」の是非

 

そもそもなぜ読み物教材の「心情追求」授業が一般的になったのか。

 

「道徳の時間」が設置されたのは昭和33年。戦後、それまでは、道徳教育は全教育活動を通じて行われたが、生活上の問題を取り上げて行うことが多く、価値に偏りがある等の問題があった。そこで、よく言われるように「補充・深化・統合」するために道徳の時間が設置された。(大学での講義を思い出しました!)

 

設置された当時は、これまでにない授業の実施に多くの教員が戸惑った。それを打破するために開発されたのが、

青木孝氏(文部省教科調査官・視学官 昭和33~60年)の

青木理論」に基づく「道徳授業の基本過程」なのだそうだ。

青木孝頼 - Wikipedia

 

①内容 区分け

【導入】ねらいとする価値への方向づけ

【展開前段】ねらいとする価値の中心教材による追求・把握(道徳的価値の自覚)

【展開後段】ねらいとする価値の一般化(前段で追求・把握し、深めた価値について、子ども自身の生活全体と結びつけ、道徳性を育成する段階)

【終末】ねらいとする価値の整理・まとめ

 

・・・ほお、青木氏の影響、すさまじい!!

もろに今、一般的だとされていますね。 

 

②構成手順

展開前段 → 展開後段 → 導入・終末

 

③発問の種類

【中心発問】ねらいに迫るために特に欠かすことのできない発問

【基本発問】中心発問を支える発問、自分との関わりで道徳的価値を考えさせる発問

【補助発問】中心発問や基本発問を補うための発問

 

この辺りは当たり前といえば当たり前ですが…次です。これです。

 

基本過程を基盤とした研究として、

展開前段の教材の多様な生かし方の「道徳教材活用の4種類」

展開後段の発問の在り方の「価値の一般化の発問類型」

展開前段・後段さらには子どもの実態把握・評価・発言の分類整理の手がかり・子どもの自己評価スケールとして生かすことのできる

「価値観の4類型」などがある。

 

これは気になります!!!

この記事では「紙面の都合で割愛」となっており、参考文献が載っています。

 

授業に生かす価値観の類型 (道徳授業技術双書)

授業に生かす価値観の類型 (道徳授業技術双書)

 

 ・・・中古で4000円近くします。

 

・・・古書で、取り扱いがない状態です。

読みたい・・・

 

 これも古いですね・・・

 

検索すると、ネット上でも片鱗が分かります。

http://www.kyoiku-kensyu.metro.tokyo.jp/09seika/reports/files/bulletin/h27/materials/h27_15_05.pdf

こちらのP94あたり。

 

 また、こちらのP6あたりです。

https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/32042.pdf 

 

氏の理論が基になってできたのが、このような一般的とされてきている授業理論なのでしょうね。

山梨県総合教育センター

http://www.ypec.ed.jp/syoukai/doutoku/2-3.pdf

 

 

青木氏の道徳はもちろんですが、特活理論についても知りたいです。

(こうやって読みたい本が増え、消化不良、育児放棄(!?)に向かって行く・・・)

 

 

とりあえず、これを買ってみます。 

道徳・特別活動の本質―青木理論とその実践

道徳・特別活動の本質―青木理論とその実践

 

 

 ご本人が書かれたこれも気になります。

道徳でこころを育てる先生 (先生シリーズ 3)

道徳でこころを育てる先生 (先生シリーズ 3)

 

 

 ・・・あ、書き忘れていました、

なぜ「読み物で心情追求」授業が一般的になったのかの続きです。

 

昭和43年、52年の改定では「児童の道徳的判断力を高め、道徳的心情を豊かにし、道徳的態度と実践意欲の向上を図るものとする」とされていたが、

 

平成元年の改定で、道徳的心情を豊かにすることを強調。(順番の入れ替え)

 

平成10年の改定では「道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度」を道徳教育の全体目標の部分に移動させた。

 

これにより、教育行政の指導も含め、教員がさらに道徳的心情を重視した授業を展開した、とある。

 

なるほど。そんな経緯もあるのですね。

 

 

・・・「心情理解のみの授業」でもなく、「心情を追求する授業」を全否定する訳でもない。

考えるに足る問いで、生き方を見つめる授業をしたい、

そして、苫野一徳氏の理念を実現する授業をしたい

shochandoeeeesu.hatenablog.com

と改めて思った次第です。

道徳科における「学び方」~Eテレ「Q」を参考に~

私の勤務校では月に一回程度、「授業づくりの会」という教員の主体的な研修が放課後20分間くらいあります。(任意参加。)

特別支援の地域コーディネーターが漢字学習について語ったり、

6月には私が「ミニノート小テスト法」を中心に語ったり。

 

 

今回は研修主任が「放送教育」について語りました。

(この方は、私が以前ブログに書いたこともある、「苫野一徳」「教育の力」を知っておられた同僚で唯一と思われる例のお方なのですが、

道徳をはじめ学習指導全般に精通しておられ、実は長年、放送教育を研究されています。

なんと、全国の学校に配布されるNHK for schoolの冊子やHPの「先生のためのページ」にも実践例が掲載されています。)

 

その方が紹介されたのが、私も大好きな「Q~Philosophy for children~」です!

 

www.nhk.or.jp

https://www.nhk.or.jp/sougou/q/

第1話を教員みんなで見ました。15分、釘付けです。皆さん初めて知ったようでした。

 

そこで改めて気づきました。現場は忙しく、よほど興味をもった人でない限り、10分、15分の番組だけど、普段は見ないのです。

(・・・でも大丈夫です!「あらすじを読む」を押してください。

「チャプター」の右にあります。

動画を見なくても、内容が結構詳しくわかります。1分で読めます!)

 

今回紹介され、「こども哲学」「哲学対話」の本校での認知度は一気に上がりました!!!

 

・・・さて、肝心の内容なのですが、

「なんで勉強しなきゃいけないの?」「カッコいいってどういうこと?」などの身近な疑問、(分かっていそうでよく分からない、考え甲斐のある疑問ですよね)が各回のお題となっており、

2人が問答しながらそれについて考えをふかめていくものです。

 

そして各回には「Qワード」というものがあり、「なんで?」「そもそも」「反対に」というような、物事をより深く考えられるようになる、手助けとなる言葉が紹介されています。

こちらの scene 11 (10分15秒あたり)に  「Qワードおぼえうた」というのもがあり、それにつまっています。

https://www.nhk.or.jp/sougou/q/?das_id=D0005180287_00000

なんで? ほかの考えは? 反対は? もし~だったら? そもそも? 立場をかえたら? たとえば? くらべると? 

QQQQQ Qワード きみの疑問(ぎもん)を ほり下げてみよう 

 

なんで? 理由をさぐってみる 

ほかの考えは? いろんな考えを出してみる 

反対は? あえて逆(ぎゃく)で考える 

もし~だったら? 仮説(かせつ)を立ててみる 

そもそも? 前提(ぜんてい)からうたがってみる 

立場をかえたら? だれかの気持ちになってみる 

たとえば? 具体的(ぐたいてき)にあげてみる 

くらべると? ちがいはどこかさぐってみる 

 

なんで? ほかの考えは? 反対は? もし~だったら? そもそも? 立場をかえたら? たとえば? くらべると? QQQQQ Qワード きみの答えを ほり当ててみよう

 

変化が激しく、価値観が多様化した現代、

答えのはっきりしない問いについて自分(たち)で考え見出していく力はますます必要となり、

だから、学校教育全体でも、道徳の授業でも、そのような機会を大切にしてその方法を身に付けられるようにしたいし、指導要領にもそのようなことが書いてあるのですが、

 

この「Qワード」はその方法を身に付けるための鍵になる具体的なものだと思うのです。

「思考ツール」「シンキングツール」と似ています。

使いこなせるようにすれば、自分(たち)で思考が深められる。

 

先日、東京書籍の「タマゾン川」の授業をさせていただいた時、

「『なぜ』と問いながら深めよう」をサブめあてにして行いました。「『なぜ』のギアを上げていこう」と言いながら、子どもたちから出た意見を一歩深めていきました。

 

・・・「なぜ」と問うことは当たり前のように授業でしていることです。

「学び方」が身につくように道徳授業を行っていく、ということです。

 

他教科では

例えば算数で「図に表して考える」「例えば分数の代わりに整数を当てはめて考えてみる」のような学び方はよく教えますよね。(山大附属光小学校によく行っていた頃のことを思い出します。10年以上前、当時は「追究スタイル」と読んでいましたが、現在はどうなのでしょう。)

「もし」「例えば」「逆に」などの話し始めのキーワードもよく指導します。(あ、これって「Qワード」ですね!!)

 

道徳科でも「自分と比べて振り返る」は毎時間のようにしていると思うので、学び方として児童は意識していて定着もしていると思います。

それ以外の学び方ももっと意識させたい、その手始めとして「Qワード」を使ってみてはどうか、というのが私の主張です。

 

 

 

「許す」とは何か 道徳「銀のしょく台」を通して(続編)

前回記事↓ の続きです。

shochandoeeeesu.hatenablog.com

 

道徳教科書の「銀の燭台」について考えていたら、

「『許す』とはそもそも何か」

ということについて自分の中でよく整理できていないことに気づいて、

ネットでも調べてみました。

 

その中で、下のページに、こう書いてあったことが印象的でした。

https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=1898&comment_sub_id=0&category_id=287

「『許す』とは過ちを犯した人間が謝るなり金品等で補償してくれたら、などの条件がつくが、

『赦す』は過ちを犯した人間を無条件に受け入れることだ」

 なるほどです。

条件付きの「許す」

無条件の「赦す」

 

 

「時が経てばゆるせる」とか、

「ゆるさないと自分の都合が悪いから」「ゆるした方が自分が得だから」というのも

「許す」の方に近いと思います。

 

司教は、謝られてもいないし、何の条件も無く、ジャンを受け入れた。

「赦した」のですね。

 

「無償の愛」と近いと思います。

 

 

 

先日参観した授業で、最後にある子が「これって実話ですか」と尋ねていました。

実話だとより説得力が増すと感じたのでしょう。

確かにそうですね・・・

 

レ・ミゼラブルはもちろんフィクションですが、

マザー・テレサ等、実話でも「赦し」の逸話はありそうです。

けれど、マザー・テレサでも、煩悩だらけの私とはかけ離れた遠い存在に感じるのは私だけでしょうか?

そう思いながらいろいろ読んでいくと、

こちら↓を見つけました。

http://seishonyumon.com/coach/509/ 

・宣教師の家族の話

キング牧師の話

・ライアンを赦したヴィクトリア婦人の話

 

ミリエル司教のような方が現実にいらっしゃるんだなあ。

 

 

 

しかし、現実であろうとなかろうと、これは言える。

つまり、

 

「『許す』ことは難しい場合があるし、『赦す』ことはなお難しい。

それでも、多くの人は、司教のように『赦す』ことに憧れ、尊いと感じる。」ということ。

 

それはなぜだろう。。。(これ、授業でそのまま発問にできそう)

 

・自分の気分を穏やかにするために許そうとする、とかではなく、100%相手を思っているから かな。

・どこまでも謙虚だから かな。

・相手を信じているから かな。

信じれば信じるほど裏切られた時に自分が傷つくのに、それでも信じるから かな。

・難しいから かな。

 

いや、たとえ裏切られても司教は傷つかないのかもしれない。

…あんなに信じた『のに』と考えることは、見返りを求めている心の表れだから。

 

 

考えれば考えるほど、難しいことだな・・・と思います。

(だからこそ憧れるのでしょうね。)

 

 

では、自分の人生に少しでも生かしていけそうなことは何だろう。

 

…謙虚であること。

…憎しみの連鎖を止めたい と思うこと。

…平和な世の中を願うこと。

 

ですかね。

 

 

この問いで授業または哲学対話をやってみたくなりました。

 

2020/11/09 追記

 

 

11「相互理解・寛容」について考えた  「銀のしょく台」(東京書籍)を通して

2019/10/17 一部追記 

11 相互理解,寛容

〔第3学年及び第4学年〕 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,相手のことを理解し,自分と異なる意見も大切にすること。

〔第5学年及び第6学年〕 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を尊重すること。

(中学校) [相互理解,寛容] 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し, いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと。

 

 

■内容項目は「相互理解、寛容」

この項目は1・2年生には無いのだな。ふむふむ。それほど相手のことを理解すること、広い心をもつことは高度なことなのだろう。確かに小さい子は自己中心性の塊だ。

 

 

「相互理解」すれば「寛容」になれるし、「寛容」になれば「相互理解」が進む。表裏一体だから一つの項目になっているのだな。なるほど。

 

だけど、学習指導要領には「謙虚で広い心」とも書いてあるし、教科書の見出しには「みとめあう心」と書いてある。教師用指導書には主題名「過ちを許す」と書いてある。けれど、これらはイコールではないように思う。

あえて表すならば、

相互理解≒みとめあう心

寛容≒謙虚で広い心≒みとめる心   みとめる心∈みとめあう心

寛容∋過ちを許す心  か。

 

コトバンクに、ブリタニカの解釈が載っていた。これが興味深い。

https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E5%AE%B9-49716

元来は,異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたのであるが,やがて少数意見や反対意見の表明を許すか,否かという言論の自由の問題に転化し,ついには民主主義の基本原理の一つとなった。ボルテールは「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」と語り,これは寛容の精神をよく示した言葉として引用される。だが寛容には限界があるとされている。まず第1に,理性,良心,真理への信念に基づく言説にのみ適用すべきである。第2に,民主主義を破壊しようとする言動に適用してはならない。ワイマール共和国がこの限度を知らなかったために悲劇の道をたどったことは歴史的教訓として記憶されている。

 

指導要領の「それぞれの個性や立場を尊重し, いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び」というのは、上のように「人権を守る」ということであり、民主主義の基本原理の一つなのだな。

 

■寛容はなぜよいのか。なぜ大切なのか。寛容だとどんなよいことがあるのか。

(許すことのよさ、 謙虚であることのよさ)

・人から信頼してもらえる。寛容でない、つまり、他人に厳しかったり、他人のせいにしてばかりだったりすると、信頼されない場合や好かれない場合が多い。

・寛容は謙虚さから来るもの。「自分も(うちの子も)そうしてしまうかもしれない」と自分に謙虚になれる。自分を省みることができるので、自分が成長できる。人のせいにしてばかりの人生より幸せになりそう。(自分にプラス)(自分のせいにしてばかりだと精神を病むかもしれないが)

(これが、指導要領解説に書いてある「寛容さと謙虚さが一体のものとなったとき、広い心が生まれ」ということか。)

 

・厳しさに怯えて行動するよりは、のびのびと、お互い安心して行動できる。→よいパフォーマンスが発揮できる。(お互いのため)

・許してもらえると自分も許そうと思う。寛容の好循環が生まれる。(社会全体の幸せにつながる)憎しみの連鎖を断ち切れる!

 

・相手を許すと、別の機会に自分が許してもらえる。(自分の得の期待)

・「優しい人」になれた気がして、自分で気持ちがいい。(自己満足)

・例えば、「え?また飲み会?多すぎない?…まあ、でも、自分も好きなようにさせてもらっているからなあ。お互い様だ。いいよ。」と、優しくなれるし、イライラしなくてすむ。相手にも優しく甘く、自分にも優しく甘くなる。(結局、自分に甘くなるため?)(優しさと甘さは似て非なるものだと思うから、そこは改めてよく考えてみなきゃ…)

 

以下、教材文「銀のしょく台」を通して、「私自身が」考えたくなったこと、考えさせられたことを書きます。そのまま発問にはできないものも含まれますがご了承を。

 

■初めて会った人で、元罪人で、泊めてあげてご飯もあげたのに、夜中に銀の食器を盗んでいった。

物語の時代でも、今の日本でも、ミリエル司教のようにそんな盗人を寛容にかばう人は少ないはずだ。実際に、盗みは法律では許されないことだ。

それなのに、ミリエル司教はジャンが銀の皿を盗んだことを許し、しかも、銀の燭台まで渡して手を差し伸べた。

①まず、ジャンが盗みを犯して逃げたと知った時の司教の気持ちはどうだったのだろう。どういう考えからジャンを許したのか。

②一体、ミリエル司教はどんな思いで燭台まで手渡したのだろう。

③ミリエル司教をそうさせているものは何なのだろう。

 

・「泊めてあげてご飯もあげたのに」ではなく、「泊めてあげてご飯もあげるのは、司教として、いや、人として、当たり前だ」。だから「恩を仇で返したな」とはさらさら思っていない。

・19年も監獄に入れられていた。しかも罪人への世間の風当たりも厳しい。それらが彼の心を荒ませてしまったのだ。同じ状況なら、誰だって、私だってそうなるに違いない。

・もともと、銀の食器は、貧しい人たちのものだったんだよ。私達がまちがえていたんだ。

・思えば私達は贅沢をしていた。木の器で十分だ。

・私達が彼を新たに盗人にしてしまったとも言えるのだ… どうにかできなかったのだろうか。

・どうにか彼を救えないだろうか。

(・元罪人に銀の器でふるまったり銀の燭台を出したりしたのが間違いだった。質素にしておけばよかった。←こう考える人もいるかも。)

私見】同じ修道院で過ごすキリスト教徒でも、マグロワースさんとミリエル司教とでこんなに感じ方がちがうのだなあ。それほど「愛」を体現するのは難しいのだろう。

 

②③

・これまで、本当に辛く険しい道を歩んでこられたのですね。

・私はあなたを信じています。食器と燭台を売って得たお金で、力強く、優しく生きていけるように願っています。神のご加護がありますように。

・彼が苦しいのは、貧しさと世間の冷たさのせいです。本当に責められるべきは、そちらの方です。

・長い罰を受けても盗みを犯したということは、もはや、罰を与えても改心はしないということです。彼には、愛、慈悲こそ必要なのです。

・「神の前ではみな平等」。罪を犯した人もです。それを実践するのが我々の使命です。

(・修道院等は、寄付を受ければ、生活に困ることはない。このくらいあげても大丈夫。←こう考える人もいるかも。)

・冒頭の引用、ボルテールの言葉「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」を使えば、

「君のしたことは罪だから賛成はできないが、君が生きていく権利は自己犠牲を伴ってでも守ろうと思う」こんな信条か。

しかし、それとも少し違う気がする。司教は、「自己犠牲を犠牲と思っていない」ように感じる。銀の食器はもともと貧しい人のもの。私のものではなかった。だから犠牲でも何でもない。我々が間違っていた。(この発想が一般的との違いか)

・うそをつくことはいけないこと。しかし、窮地に立たされた貧しい人を救うためなら、うそも方便。

 

 

■もしそこそこ意見が出たならば、それらを比較・吟味する中で、より価値に迫る。

「どれがミリエル司教の思いに近いと思うか」または、「どれに納得したか」「どれにも納得できるか」(比較・吟味)

(明確な答えはないが、比較・吟味し理由を述べることで、「Aさんの意見の方が『上から目線』な感じがしないから」とか、「Bさんの意見の方が、今だけでなく、これからずっと捕まらないで生きてほしい、幸せになってほしいと願っている感じがするから」「家族のように心の底から思っているところに納得」などと、それまでに出なかった言葉で表せ、自身で気付けるはず。)

 

■しかし、司教の寛容さ、愛は、宗教的なものも含まれ、子どもたちには(いや、私にも)理解が難しいところなので、表面的な意見しかでないかもしれない。その場合、どうすれば深く掘り下げて考えることができるだろうか…

「これで心を入れ替えてほしい」「これで捕まらなくてすみます。もう捕まらないようにね。」としか意見がでなかったら…

例えばどう問い返す?

 

「それなら、銀の皿をあげただけでも捕まらなくてすむし、改心もできるのでは?」

「なぜ、銀の燭台まであげたのだろう」

https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/q4um/?id=20190023

こちら記事にもこの発問が載っていますね。

「それだけ、あなたを信じているという愛を伝えたかったのでは」などの言葉が出てくるかもしれない。

いかがでしょうか。

 

 

もう少し突っ込んで考えてみる。

■(実際に、ジャンは改心した。

https://ameblo.jp/minetofactory/entry-12105562570.html

ジャンは燭台を売らずに最期の時まで持っていたし、憲兵に追われながらも多くの人を救い、その姿に心を動かされた人も数多くいる。)

ミリエル司教の愛が彼を変えたのだ。これは尊いことだ。

 

ではどうして私達は一般的にはミリエル司教のようにするのが難しいのだろう。

 

(したくない・したいけどできない・したいかどうか分からない・・・いろいろある)

A「許したくない」場合

B「許したい、それが理想、だけどそうもいかない」場合

C「許すべきか許さざるべきかよく分からない」場合

 

A

・自分の不利益で、被害者感情、怒り、不満が収まらないから。時間が経てば薄れていく場合もある。相応の制裁があれば少しは和らぐ場合もある。

B

・許したいけれど、自分が損をする。自分の物やお金や時間がなくなる。きりがない。(自分を守るため)

・一人許したら、他の人がもし同じように表れた時に同じようにしなければ不公平になる。財産や時間に相当の余裕がなければ、同じようにできないだろう。結局、その不公平な自分に葛藤が起こる。(自己矛盾)

・≠ 相手のことを思うからこそ、改心のためには厳しく罰したほうがいい。(あえて許さない)(相手のため)

・結局、人間は甘やかされると甘えが出て、易きに流れてしまう、という考え方からくるもの。(だから世の中には法律があり、刑罰がある。法治国家。)(世の中の秩序のため)

・ミリエル司教の言動は尊い。そのような愛が人を救う場合がある。が、そうでない場合もあるだろう。全ての人がそうあるべきとは思えない。そのような人の意見は尊重するし立場を認めるが、自分はならない。

 

…そうそう、これだ! 思い出した。

https://edupedia.jp/article/53233f8e059b682d585b6108

山口が生んだ道徳教育人、坂本哲彦先生の実践を読んで、いつものように勉強させていただいたものの、今回はどこかひっかかり、それがどこでなぜなのか、今わかった。

https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/q4um/?id=20190023

こちらの実践も、大変参考になったが、

 

「寛容」「みとめ合う心」の授業をしながら「司教が理解できない」「それは理想論」一点張りの児童がそのまま授業を終えるのはまずいと思う。

「理解しにくい、実践は難しい、けど理解しようと努力するし、立場は尊重する」

そんな授業に私はしたい、そう思うのだ。

 

 

 

■この教材文を使用しての授業を通して私が子どもに気づかせたいことは何だろう…

 

「許すか、許さないか」それも関心事だし切実だけど、

それよりも、

 

理解しがたいと思われることも理解しようと努める姿勢、受け入れる姿勢、それが人を救うこともあり、さらにそれが他の人を救うこともあるということ かしら。う~ん。

 

「寛容」つまり「許す」の授業だと思ってきたけど、

「相互理解」の方に近いのかな?(もちろん2つは表裏一体だけど。)

 

ならば、私は授業で、「自分ならどうするか」の話し合いで時間はとらず、(もちろん、自分ならこうはできないなどと自分事として考えるけど、)

とことんミリエル司教の心情、信条を考える授業にする……??

 

相当の工夫が必要。

 

 

■それと、どのように自分を振り返る?生活と結びつける?(または今回はそれを求めない?)

 

「司教のように、盗みを許すのは実際には難しいだろうし賛否両論。しかし、

一見理解できないと思ってしまう人のことでも、理解しよう、尊重しようとすることならできるし、する必要があるのではないか。

自分の生活を振り返り、もっと広い心で接したい、接すればよかったと思うことはないか。」

 

…これまた難しい。

 

 

また、今後、考えてみます。

 

 

 

 

 

もう少し突っ込んで考えて・・・ 人間理解。

 

 

■寛容になれる場合となれない場合があるなら、どんな時に寛容になれないのだろう。(上の、なぜ一般的にはミリエル司教のようになれないのか、と似た問いだが)

そして、どうすれば寛容になれるのだろう。

 

・罪の重さによる。身勝手な殺人や暴行、強盗なら許せないし、娘への薬を買うためのお金を払ったら手持ちのお金がなくなってパンを盗んだとか、脅されてやったとかなら同情できる。寛容になれる。

・何度も何度もよくないことを繰り返すのは許せない。

 

もし、同じように「家にある高価なものを盗んだ」という設定では・・・

・初めて会った人だったら許すのはなおさら難しい。改心するかどうか分からないし、今後共に過ごさないのであれば、改心したかどうかも確かめにくいから。

・今後も付き合い続ける、これまでも信頼していた人なら、まだ許す気になる。

「どうして?きっと魔が差したのだろう。」と思える。今後も付き合いたい人なら、許した上で付き合い続ける。これを機に粗縁にしたいと思えば、「いいよ」とは言いながら、「(付き合うのは)もういいよ」と思う。

・日頃から信頼できない人だったら、「やっぱりね」「こんな人に近づくのではなかった」と思う。許したくないが、近づいた自分を情けなく思い、諦める。

自分から近づいたのではなく、自動車事故のように相手から近づいてきた場合は、余計許せない。でもいつまでも腹を立てて精神を消耗するのは自分が損なので、割り切ろうと努力する。「運が悪かった」「これから稼ぐしかない」と。

・特に、相手が反省していない場合は、許せない。でも、本当に悪い人で、訴えると余計に仕返しをしてきそうな相手なら、「そういう人も世の中に入る。さっさと手を引いて関わらないようにしたい」と思う。「許す」のとは違い、「諦め」。「天罰よ下れ!」と思うが、それも消耗なので、「そういう人はどうせ幸せな人生は送れない。自業自得」「私はこの不幸を乗り越えてこれから幸せになれる!」と思って切り替える。

・自分が追い詰められている時。精神的、肉体的、時間的、経済的に… 自分を守ろうとする防衛本能が働くので、他人を責めてしまう。

 

※もし相手が子どもや家族なら…話は全く別。

家族なら、余計に許せないかもしれない。でも、やはり、どうにかして改心してほしいと願い、できるだけのことをすると思う。教え子にも、改心してほしいと思う。

 

 

■…あれ?そもそも「許す」ってどんなことだ?

心から「いいよ」「全く気にしないよ」と思うことかな?

許すとは  で検索してみると、

https://www.google.com/search?q=%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF&rlz=1C1SQJL_jaJP809JP809&oq=%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF&aqs=chrome..69i57j0l4j69i61.8234j1j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8

「さしつかえないと認める。願いなどを聞き入れる。罪・とが・負担を免ずる。禁を解く。」

 

…「本当に許す」のと「許したふり」とは違うなあ。

私がしてきたのは「許したふり」かも。

結局、自己都合が多いから・・・

 

・・・・・・・・

2019/10/21追記

「許すとは?」についてもう少し考えてみました。次のブログです。

(それを基にした問いも)

 

shochandoeeeesu.hatenablog.com

・・・・・・・・・

 

 

★長い教材文を(支障がないように)短くできないか。

自分なら、ジャンが銀の皿を盗んで逃げる場面(P130「(あれは、」から、P131の「暗闇の中へ逃げていった。」まで)を3.4行にまとめる。

序盤は、ジャンの服役の長さや、疲れや空腹、司教があたたかくジャンを迎え入れたことが表れており、それは司教の愛、ジャンを受け入れる気持ちを理解するのに必要な前提だから、短くしない方がよいと思う。

P132の上段の司教とマグロワースのやりとりは短くできなくもないが、司教が食器かごを見つけてからしばらく考えていたこと(その間、疑ったり腹を立てたりしていない)を表しているから、司教の性格や心情を考える上で必要だと思う。

 

 

 

■追伸

東京書籍の教科書で5年生の時にどんな教材文で「相互理解,寛容」を学習したのか気になって調べてみると、「名医、順庵」というものだった。教材研究として、それと比べてみるのもよいと思う。

 

 

追記2019/11/04

坂本哲彦氏のこちらの著書の最後に、「銀のしょく台」の別案が載っていました。

改訂を反映し、しかも氏の主張を盛り込んだものになっています!

shochandoeeeesu.hatenablog.com

 

 

 

道徳科の内容22項目を読み直してみる 8(感謝)

2019/10/12一部追記

8 感謝

〔第1学年及び第2学年〕 家族など日頃世話になっている人々に感謝すること。

〔第3学年及び第4学年〕 家族など生活を支えてくれている人々や現在の生活を築いてくれた高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接すること。

〔第5学年及び第6学年〕 日々の生活が家族や過去からの多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それに応えること。

(中学校) [思いやり,感謝] 思いやりの心をもって人と接するとともに,家族などの支えや多くの人々の善意により日々の生活や現在の自分があることに感謝し,進んでそれに応え,人間愛の精神を深めること。

 

 

・低学年から中学年に上がると、「家族など日頃世話になっている人々に」から、「家族など生活を支えてくれている人々や現在の生活を築いてくれた高齢者に」に変わり、

また、「感謝すること」から「尊敬と感謝の気持ちをもって接すること」に変わっている。

・さらに高学年では、「日々の生活が家族過去からの多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っていること」に感謝すると変わり、「それに応えること」が付け加わる。

 

「感謝」について考えるための 私の疑問

①人はどんな時に感謝の念を抱くのだろう。

②人は何歳くらいの頃から、どんな物事に感謝をするようになるのか。(感謝の念の発達段階とは)

③感謝の念を抱きやすい対象とそうでない対象とがありそうだ。それぞれどのようなものか。

 

 思い起こすと私は小さい頃にはあまり感謝の念を抱くことはなかった。お小遣いをくれてありがとう、おやつをくれてありがとう、遊んでくれてありがとう(楽しかったね、また遊ぼうね)、そのくらいだったように思う。

小学校の卒業アルバムに「お父さん、仕事で忙しいのにスポ少の指導や送り迎えをありがとう。お母さん、私を叱ってくれてありがとう。」みたいなことを書いた覚えがある。けれど、今抱く感謝の念に比べると、そこまで深い思いではなかったような気がする。先生に対しても、そこまでの感謝の念はなかった。

 

 そんな私がいつ感謝するようになったか。教員採用試験に合格した年、私を親身になって叱咤激励してくださったゼミの先生に心底感謝した。親身になってアドバイスをくださったチューターの先生に感謝した。本気で喜んでくれ手紙をくれた祖父母に感謝した。一緒に勉強し、励ましあった友に感謝した。実は心の中でずっとあこがれでありモデルとなっていた小学6年の時の担任の先生、そのことにやっと気づいて感謝した。それに気づかせてくれた友達に感謝した。

 

 私の場合は、深い感謝の念は20歳くらいから感じ始めたということになる。なぜなのだろう。人生、生き方について深く考え、自立して生きていくようになったからだろうか。自立していない時は、結局だれかの敷いたレールの上を進む感覚があるから、「されて当たり前、あって当たり前」「もしなくてもどうにかなる、自分の責任ではない」みたいな感覚になるのかな。だから感謝に結びつきにくいのかな。

 

・現在、毎日感謝しているかと言われるとそこまでではないが、

以前かなり悪い状況を経験したおかげで、今のよい状況に感謝することは多い。労働環境や同僚との信頼関係等がこれに当たる。

「以前の悪い状況の経験」、子どもにはこの経験が少ないから、現在の有り難さに気づきにくいし感謝もしづらいのではないか。

 

・家族、衣食住、科学技術の進歩、平和、健康、安全、生きていること については「当たり前」に思えて、大人になってからも、普段は有難みに気づけず、感謝の念も抱かずに過ごすことの方が多い気がする。

それらを失ったり、身近な人のそんな話を聞いたりした時に初めてその有難みに気づくことが多い。家族が死んで家族の大切さに気づく、自分が怪我や病気をして健康の有り難さに気づく、交通事故を起こして平穏な毎日の有り難さに気づく、車が動かなくなって車の有り難さに気づく、ネットにつながらなくなってネットの有り難さに気づく、友達の身の上にそれが起こる 等。 

 

 子どもたちに「日々の生活が家族や過去からの多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それに応えること。」をつかませようと思っても、なかなかに難しそうだということ。

…家族を失うことを本気で想像したり疑似体験したりする。

…過去からの多くの人の支え、助けが全くない状況を疑似体験する。

それができれば可能かも。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記2019/10/12

若い頃、こんな道徳の模擬授業を経験した。どなたが講師だったか、忘れてしまったが、載せます。

 

小さい紙を一人8枚か10枚か配る。

T「そこに、自分の大切なものを、1枚の紙に一つずつ書いてください。」

書いた後、

音楽がかかる。(「ユー・レイズ・ミー・アップ」だった)

T「あなたは命の終わりを迎えようとしています。

大切なものとお別れしていかなくてはなりません。」

「お別れする順に、それが書いてある紙を半分にちぎっていきます。」

「まず1つ目をちぎってください」全員がちぎり終わったら、

2つ目、3つ目・・・と続き、手元の紙が減っていく。

 

…最初は、「ステレオセット」「ギター」等と書いてある紙だから、そこまで何も感じない。しかし、残り3、4枚となると、「アルバム」「友達」「家族」となり、

胸が張り裂けるような気持ちになる。

思わず涙が出た。

 

T「私達が死ぬというのは、大切なものとお別れすることなんです。・・・」

そんな終わり方だったように思うが、忘れてしまった。

 

それこそ、「大切なものを失う疑似体験」をしたのだった。

「ありがとう」「有り難い」「大切にしたい」そんな思いで胸がいっぱいになった。

 

本気で「感謝」に迫るなら、このようなワークショップ的な授業が必要なのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

ドラえもんの「独裁スイッチ」を思い出した。「くそ!消えてしまえ!」と思ってスイッチを押すと本当に消える、というもの。それでのび太くんは家族や友達、街、等、いろいろな人やものの有り難さを実感した。ドラえもんが言っていた。独裁者がわがままにならないために作られたスイッチだと。

確かにのび太くんは「人間愛の精神」に浸っていた。

 

よい教材、参考資料になりそう。(書店によく並んでいる千円くらいのドラえもんDVDに入っていましたよ。確かVol.1に。Vol.1は2~4より断然面白かったです。)

https://www.tv-asahi.co.jp/douga/doraemon/191

保育園の運動会の感想 もやもや→スッキリ!

娘の保育園の運動会を見に行きました。

極小規模園なので、子も親も祖父母も兄弟も、先生も、出番が多くあります。

何ともアットホームな運動会です。

 

障害物競走は、年少さん以上の子が、一人ずつ、1分くらいかけて見せます。

 

マットで前転、縄跳び、平均台、鉄棒(前回りか逆上がりか連続逆上がり)、ミニハードル4つを両足とび、跳び箱2~4段。

 

去年より種目が増えて見応えありました!

 

うちの娘は年少ですが、年長の子か、種目によってはそれ以上のできばえでした。。。

(連続逆上がりは年長さんよりも早く、園で1番にできましたし、縄跳びも1回旋1跳躍が60回くらいできます。)

 

子どもにより得意技があるので、年中でもあやとびができる子もいました。

けれど、ほとんどできない子も、中にはいるのです。

それでも昨年度よりは成長しているし、一生懸命で堂々たる演技に私は胸を打たれました。

でも、どこか胸が痛む私がいます。

うちの娘がすご技を披露しても、どこか晴れ晴れとした気持ちになれないと感じる自分がいるんです。。。

 

ヒップホップも切れ味がいい。そりゃ、家でも「音楽かけて!」と言ってしょっちゅう踊っているからうまくもなります。そもそも歌も踊りも小さい頃から好き。

 

だからでしょう、年少なのに、最前列のセンターポジションで入場。途中でポジションチェンジが何度かあり、右端に行ったり、中央右寄りに行ったりしますが、だいたい目立つ位置でした。

 

小さい園だから、娘が毎日夕方に「連続逆上がりがしたい!!でもできない!!」と言って泣きじゃくっていたこと、練習しすぎて手が豆だらけだったことは、みんな知っています。

「だからできるようになったんだよね。すごいよ!」とみんな思っているだろうし、私もそう思います。

それを見た年長さんが、「僕もあれができるようになりたい!!」と努力して、それでできるようになったのを知っている人も多いです。

 

誇りに思っていい。

 

娘が運動が大好きだと感じ、小さい頃から家事を多少犠牲にしても公園に連れて行って長いこと過ごしたこと、

家でも私と両手をつないで鉄棒みたいにくるっと回る技などをして遊んだこと、

部屋でも遊べるようにジャングルジムと鉄棒が合体した遊具を買って置いたこと、

室内遊び場にもよく行き、跳び箱みたいなものを跳んで遊ばせたり、ロッククライミングしたりしたこと、

保育園に入ってからも土日に公園に行き、人の多い遠くの公園にも行き、小学生が鉄棒を上手にするのを見て、娘があこがれ、どんどん練習を始めたこと。

それら環境を作ったこと。。。

積み重ねあっての今。

 

誇りに思っていいし、娘の成長を手放しに喜んで、それを娘に伝えるべき。

 

ヒップホップの曲をかけてあげて、踊るのを見て見て!と言うので見てあげて、

ついでに私も一緒に踊って(笑)、

もう一回踊ると言うのでもう一回流して、もう一回と言ったのにまたもう一回というのでさらに流して、

家事は母に任せる。(笑)

実家に同居だからなせる技。感謝しかない。

この環境にしっかり感謝した上で、

家族一緒に喜んだらいい。

 

 

・・・だけど、どこか引っかかるんです。

 

何が引っかかるのだろう。

それが自分でもよく分からない。

 

 

・・・全員の器械運動が全部終わった後に、

みんなで縄跳びをし始めました。

駆け足とび、あやとび、前とび、できないけどあやとびにチャレンジ、、、みんな思いっきり笑顔で、思い思いに跳ぶのです。

終わりですと先生が言っても、まだ、跳ぶのです。笑

(うちの娘はあまり跳んでいなかった。他の子を見てばかりで、自分は遠慮していたみたい。何をしたらいいのか分からなかったのかも。)

 

その時、私は、自分も心から笑顔になれました。

 

 

・・・そうだ、これだ。

私の感性は、これを心地よい、ほほえましいと感じるんだ。

 

例えばマットも、みんなが前転をするのではなくて、

「動物歩き」をし、自分の得意な動物をして、

みんなで揃えて「ゆりかご」をして、

数人で向かい合ってハイタッチして、

「おいもごろごろ」(横ころがり)は二人で手をつないでしたり、

ブリッジ、煙突、ねこちゃんポーズ、かえるの逆立ち、etc

できるようになったものを選んで、決めポーズ。

 

鉄棒は1つしかないから順番にするようになるけど、

足抜きまわり、しり抜きまわり、足掛け振りがあってもいいし、こうもり、こうもり降り、地球まわり、豚の丸焼き、つばめ→布団干し→つばめ、後ろとび降り 等があってもいい。

 

実は、前転や側転、前回り降り・逆上がりの「前段階の技」、「遊び」が、たくさんあるんです。

 

それを使った、団体演技のような演技だったら… 苦手な子も持ち味が出せるし、

みんなで一つの「器械運動遊び演技」を作り上げている感じがする。

新体操の団体みたいな感じで。

 

…園児の場合、一人ずつ集中してしないと危険だし、出来ばえも悪くなるだろうし、

それこそポジショニングなどで練習も大変になる。

だから、こんな演技の実現は難しいと思う。

けれど、それを承知で提案したい。

 

①同じ技、しかも実は高度な技のできばえで比べてしまう形の発表会ではない形の模索。

②「みんなで楽しく」「普段の遊び(の延長)」の要素を入れた形の模索。

 

 

①教員養成課程、保健体育研究室出身の私だから思うこと、

②小学校教員の、自分の教育観で感じること、

 

その2つが原因でモヤモヤしていたのだと、自分のことが少し理解できました。

 

私の心のビフォー・アフター。 アフターはこちら↓ 何ということでしょう。

 

 

・・・・・・・・・・

我が娘が特技を披露するのは大いに結構!

「いや~~私がこれをできるようになったのは2年生くらいですね~~~!

親もびっくりです! この「負けず嫌い」にもびっくりです!

いやあ、これまで公園遊びに長い時間付き合ってきてよかったです!」

「娘よ、あんた、ほんとにすごいわ!!!」

 

「センターらしい、立派なダンスだった!キレッキレ!」

 

「年少の娘をセンターにする決断をされた先生、思い切った決断、ありがとうございました!きっと毎回の練習を真面目に懸命に受けていたのでしょうね。

『ヒップホップ、疲れるから嫌だ』と言って登園をしぶることもあった娘。でもそれを乗り越えて、みなさんの期待に応えるダンスができました!」

 

それでいいんだ。それがいいんだ。

 

新しい学校をつくっている「つもり」の私

♪ 多忙な仕事~あってこそ優~~~雅な暮ら~し なの~に~や~り~き~れ~ぬう~~ オ~ サンデ~~ モ~お~~ニ~ング ♪ 

ミスチルの…何ていう歌だっけ?)

 

優雅な暮らしはそんなに求めていないのですが、したいことが多すぎて、もっと時間が欲しい! ああ、もう娘が起きた…

欲張りな私です。きりがないから、この癖をやめなきゃなあ。

 

さて、苫野一徳氏や岩瀬直樹氏らが中心となって

2020年開校予定の「軽井沢風越学園」

一時はそこへ引っ越そうかと本気で考えた時期もありましたが、今は、

1教員として山口での生活を続け、自分にできることをしていこうとしています。

 

ツイッターやブログで、設立に携わる方々が考えていらっしゃることを読んでは、

設立メンバーの一人になった「つもり」になって、わずかですが勝手に臨場感を味わっています。

例えばこの方のツイッターとブログ。中高一貫校の国語の先生でいらっしゃったので、国語の専門性が高い!!!

こうやって、風越学園の国語教育をどう組み立てていくか1から考えていらっしゃるのですね。

 

自分の国語教育哲学(みたいなもの)も同時に見つめ直していけます。

 

…目の前の娘が、読み聞かせをあまり聞いてくれないし、図書館にも一緒に行ってくれないので、そちらもかなり切実なのですが。(リクエストがあることはあるのですが、いつも「ノンタン」ばかりで、こちらは飽きてしまうんです。)

NHK「おはなしのくに」は好んで見るようになったんだけどなあ。。。

まあ、それだけでも大きな一歩なのかな。

 

うーむ、親の「読ませたい意図が見え見え」だから嫌なのでしょうね。

そして学校教育もこの「意図見え見え」問題が大いにありますね。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに私の今の頭の中

(やりたいことが多すぎて、回っていない。)

 

娘の運動会のビデオ編集しようと思いながらも、娘と栗拾い、散歩、

そしてスキマ時間に頭の中は、

特活の「あいさつ全校集会(仮)」の案のこと、

国語の敬語指導の反省から、「敬語チャンツ作りたい」欲求、

作りかけの都道府県の歌完成、

漢字指導、語彙指導の改善案、

運動会の改善案、

道徳授業のもやもや部分の整理、

働き方改革

オンライン英会話 目標週4回、

読みかけの本、読みたい本の「積ん読」解消 (こんな本)

 

今こそ日本の学校に!  イエナプラン実践ガイドブック

今こそ日本の学校に! イエナプラン実践ガイドブック

 

 

THE TEAM 5つの法則 (NewsPicks Book)

THE TEAM 5つの法則 (NewsPicks Book)

 

 

 

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

ベスト・オブ 窓ぎわのトットちゃん (講談社バイリンガル・ブックス)

ベスト・オブ 窓ぎわのトットちゃん (講談社バイリンガル・ブックス)

 

 

愛 (講談社現代新書)

愛 (講談社現代新書)

 

 

僕らの世界を作りかえる哲学の授業 (青春新書インテリジェンス)
 

 

こども六法

こども六法

 

 

あれこれ追いすぎだから絞らないとなあ。

全科教える小学校教員あるあるですね。

 

 

♬た〜だのクラスメ〜イト

そう〜呼び合えた〜 あの頃は〜

ア ロングタイムアゴー〜〜♬

 

あ、曲名は「クラスメイト」だ!

 

あれ?これ、もしかして、複雑な事情ありの歌?!

こんな提案したかった。「すんまへん」でいい 6年「節度・節制」授業を終えて

(2019/10/04、2019/11/03 部分的に更新)

 

東京書籍の教科書の【「すんまへん」でいい】という教材文で校内公開授業をしました。

 

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2組
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こんな反省だらけの授業の指導案や写真を載せるのはいかがかとも思いますが、叩き台として、記録として載せます。

 

1組では前向きな意見が多かったのですが、翌日2組で行った時に、微妙に発問を変えたせいもあってか、価値について考えを深められなかった子が半数近くおり、

子どもたちへの申し訳なさと、自分へのいらだち、悔しさ、落胆で、当分の間落ち着きませんでした。

授業直後は、ある男子と「勉強VS目先の欲望」について語り合った後に、

「あの問い返しをしてあれを書くつもりだったのに忘れてた」「いつものことだがまた私ばかりがしゃべっていた」等が頭を駆け巡っていましたが、

その後、

「計画が甘かった」「問いかけに無理があった」「やはり、主人公の心情を問う王道の発問にすべきだった」と、

根本的な問題について思いが至りました。

 

その後、いろいろなご意見ご感想をいただくことで、

子どもたちは何に、どうしてつまずいていたのか、

主発問や終末、切り返しの代案 等に気づきました。

 

夜道を家路につきながら、この反省だらけの授業、

「そもそもなぜ、あえてこの流れでいこうと思ったのか」

「何を提案したかったのか」

と、ふと思い、自分でも忘れてしまっていましたが、思い起こしました。

それを書きます。

 

………

1つ目。『教材文の登場人物の気持ちを問うていくことが中心の方法』以外のタイプの授業がもっとあってもいいのではないか

 

私は自分が子どもだった頃、(学習意欲は旺盛な方でしたが、)道徳の授業を興味深く感じませんでした。

物語を読んで、どこか綺麗事のように感じ、そんなに共感できないものも多く、

「この時の主人公はどんな気持ちだったのでしょう」と尋ねられて、とりあえず考えるけどあまり思い浮かばず、または先生が求めていそうな答えを考えて言って、

最後はわりと分かりきったことを先生が言ってきれいにまとめ、

心にそこまで響かない、

そんな時間が多かったように思います。

 

しかし、一つだけ、今でも覚えている授業があります。

確か中学年で、公開授業でした。授業が終わった後で、他の先生が「○○さん、ええこと言うね〜」と言いに来られたのも覚えています。

 

「あだ名はよくない」というようなテーマの授業でした。教材文で学習し、賛成は帽子を赤に、反対は帽子を白にしてかぶって話し合いました。

私は、実際の友達の例を挙げながら

「よいあだ名もある。だって、○さんは『なすび』って呼ばれて嫌そうではないもん」と訴えました。

最後には、その気持ちも多少揺らいで、赤白帽子をウルトラマンみたいにしてかぶり、授業後も「うーん」と腕を組み考えていました。

 

「学活みたい」と言われるかもしれませんが、これも道徳授業。

(このような批判はよくあると、苫野一徳氏も著書で述べておられます。)

 

自分が教師になって、

子どもの頃の私のような感じ方をしているのだろうと思われる児童に何度も会いました。

 

そしてこう考えたのです。

「例えば、物事の理解に、視覚優位の人も、聴覚優位の人も、言語優位の人も、図式や体験優位の人もいる。またその物事の内容の特性にもよる。だからいろんなタイプの授業をする。

それと同様に、道徳の授業も、

『教材文の登場人物の気持ちを問うていくことが中心の方法』以外のタイプの授業がもっとあってもいいのではないか

 

例えば、どこかの4年の教科書に載っていた、おでこにカラーシールを貼って、しゃべらずに同じ色の人と集まる、のような、(山口県のアフピーみたいな)活動をしてその振り返りをする等の授業もありなのでは。

例えば、教科書教材文は割とさらっと読んで、自分の生活を見つめ直しをメインで行ったり、

例えば、「あいさつ」を哲学対話で本質観取したり、

のび太ジャイアンの出来事3つを比べて友情かどうか分析したり、

教材文の主人公と、身近にいそうなAさんの話を比べて、違いは何か話し合ったり、

もっと自由な発想で行う授業が増えてもいいのでは、と

思ったのです。

そういうのこそ今道徳授業に求められているのではと、昨今の動向からも感じています。

 

 ・・・・・・・・・

 

2つ目。

自分の生活を最後に少し振り返る授業ではなく、

後半はじっくり自分の生活を見つめ、その時の心情を見つめ、それについて語り合うような授業もあってよいのではないか。(特に今回の「節度・節制」などは。)

今回は、自分をよりよく見つめる方法の1つとして「自自会議」(自問自答)を提案したわけです。

(これは同僚からは好評もいくつかいただきました。)

 

・・・・・・・・・・

3つ目。

子どもは有能、子どもは哲学者、一人の人格との児童観、

教師も子どもと共に考え話し合う存在に。

「上から目線」からの完全撤退。

 

・・・・・・・・・・

4つ目。

「これからはこうして行きたいです。」といった、本当の気持ちかもしれないけれどどこか表面的、いいこちゃん的な振り返りばかりではなく、

「でも、〜〜ともいえるんじゃないかな。

それって、こういうこと?

でも、こんな場合は?

どこか引っかかる。

どうして〜なんだろう。

本当にそうだろうか。

ここをもっとみんなに聞いてみたい。」

というような、授業完結でない振り返りが出てくるような授業

 

・・・・・・・・・・

 

5つ目。

自分の生き方を本気で考える時間がある授業。

 必要感がある授業。

 

・・・・・・・・・・

6つ目。  価値理解もだけど「人間理解」に迫る授業

例 失敗しないと心底反省できない所があるかも

  分かっていてもついやってしまう、欲求の強さ、性

 

……

こう書いていると、落胆の気持ちは消え、

やっと次への意欲が湧いてきました。

 

失敗の前、後、うんぬんではなく、

とにかく、自己を省みて、次に生かしていく。

 

……あ、これ、今回の授業でやりたかったことだ!

 

 

(追記2019/09/28夕方)

この教材文を読んだときに思ったことは、

主人公は、

心から反省して、おやじさんにも誠意をもっておわびの言葉を伝えた。

けど、「弁償させてください」という言葉は、「それで許してほしいと思っている」「責任を軽く見ている」と思われても仕方のない言葉だった。

そのおやじさんの教えも重く受け止め、おやじさんにも、器に対しても、心底申し訳ないと思う主人公。

素直だ。

こんなおやじさんをもって幸せだと思う。

 

重みのある、すばらしい教材文だと思います。教師からすれば、主発問にふさわしい山場もある。

 

しかし、今回は敢えて教師目線を捨てて読んでみた訳です。

 

綺麗事があまり好きでない一般の方の目線を想定して。

「開かれた教育課程」ならぬ「開かれた道徳授業計画」ですね。 

 

 

すると、こう思えてきました。

 

そりゃ、隠しようもない失敗だから誰だって正直に言うしかないし、全部一人でやったこと。

人のできたおやじさんとこんなに信頼関係があれば、心から反省もできる。

 

けれど、私達の日常生活で、そんな場面はどれだけあるか。

 

たいていは、

自分だけがやったことではない等、自分だけが悪いとは思えない場合や、

そこまでの大失敗ではない場合、

言わなければバレないかもしれない場合、

そこまでの信頼関係がない相手の場合、

相手が知らない下級生だった場合で、謝らなくても何とか済みそうな場合、

誰のものか分からないもの、公共物の場合、

親とか先生が相手で、素直に謝りたくない場合、

相手が友達で、何となくなあなあに済ませられる場合、

そこまでの迷惑をかける相手がいない場合、

将来への影響が具体的に分からない場合…

 

そんな状況で素直に反省できない場合の方が子どもたちには多いのではないか。

 

さらには、振り返りとして、

「あの時もう少し注意しておけばよかったと思うことを振り返る」が例として教科書に書いてあるが、

 

それはもう反省していること。

また授業で振り返るのか?

その時間があるなら、

まだなかなか反省できないことを振り返る方が今後のためになるのでは?!

 

もっと「目先のことへの欲求」と「その自制」に目を向け、しかも、日頃深く反省しにくいことに目を向けさせたい…

その思いで、「今これをしたいという気持ちのせいで他のことがおろそかになったことは?」と事前アンケートで問うたのです。

 

たとえ今回の振り返りで「ああ、〜〜だからやっぱり改めよう」とならなくても、

なぜなかなか反省できないのか、

普段じっくり考えもしないことを考えるチャンスになる。

 

そう思ったのです。

 

私が子どもなら、その方が授業に熱中する。

 

そう思ったのです。

 

  

 

……「失敗」「失敗の前に」という言葉を発問等に使ったことは、まずかったと思います。失敗にも、命や大金が関わる大失敗もあれば、寝不足のような小失敗もあるし、

失敗を避ける、失敗を防ぐ、ばかりでは、挑戦を避けるようになるし、

私達は失敗を含め様々な体験をする中で成長する訳だし、

失敗かどうかに関わらず内省し成長の糧とすることが大切だと思うからです。

 

実際、子どもたちの中には、どの程度のことを失敗と私が言っているのかで困惑していた子もいたようです。

また、「失敗のない人生は無理だ」と言い切って思考停止になっていた児童もいました。

 

後半の発問はシンプルに、

「今これをしたいという気持ちのせいで、今やるべきことをおろそかにしないためには?」

だったらまだよかったかもしれません。

 

 

…ワークシートにしっかりコメント書いて、道徳通信なるものを書いてみようかと思います。

 

 

話はそれますが・・・こういう教材研究、事後研究の時間、普通学級担任は忙しくて、取りにくい。

その現状を変えたいという思いも、今、改めて湧いてきました。

 

 

 

(2019/10/02追記)

私がなぜ教材文の後半部分(クライマックス)に焦点を当てなかったのか、自分でも忘れかけていたので、思い起こしてみました。

 

もし「おやじさんに諭されて、主人公はどんなことを思ったか」という発問だと、「弁償すると言ったのは浅い考えだった」「なぜ弁償すると言うのがいけなかったのか」というところに焦点が当たったり、「おやじさんはこんな私に厳しくも温かい言葉をかけてくれた」と、おやじさんがどならなかったことへの感想が出てきたりして、

主人公の欲求や自制についてのみ話し合うことが難しい。

そしてその後の自分自身をしっかり見つめる時間が取れない、と考えたからです。

また、価値項目「正直・誠実」「礼儀」の授業になりそうだ、と感じたからです。

(実際に価値項目「礼儀」で扱っている教科書もあるようです。)

 

けれど、今思えば、内省や節制には正直さや誠実さは必要なので、臆することはなかったし、

「なぜ弁償すると言うのがいけなかったのか」という話し合いになっても、「お金で償えば許してもらえる、責任逃れのように受け止められる」→「自分が本当に悪かったと思うことを何よりも先にすべき」→「主人公は『自分が悪かった』とすでに思っているはずだ。何を反省しているのだろうね。」と、

自制できなかったことに目を向けることもできたと思います。

 

…けれどそれでもやはり「内省」というより「謝罪の仕方」の話に時間がかかりそうだと感じ、私には自信がなく、

それならばと思い切って前半部分のみを問うたのです。

 

・・・そもそもの自分の思考が整理できて、ちょっとスッキリ。

 

 

ということで、

もし、「前半部のみに焦点を当て話し合い、授業後半は【自自会議】」という授業構成を変えないのであれば、

代案としては

「店に戻る時、主人公は、何を反省し、どのように思っていたのだろう」

「『今これをしたい』という気持ちで、『今するべきこと』をおろそかにしないために大切なことは何か。自分のこれからの生活に生かしたいことは何か。」

 

 

もし、授業構成を変えるのであれば、

「おやじさんの言葉を聞いて、むねがいっぱいになったときの主人公は、どう思っていたのだろう」

 

 

いかがでしょうか。

ご参考になれば幸いです。

 

【2020/08/05追記】

坂本先生のページに、ありました。

sakamoto.cside.com

http://sakamoto.cside.com/sakamoto2004/sunmahenshidouan.pdf

 

なるほど、「謝る」とは、「礼儀」だとばかり思っていた私ですが、「反省」「自分を省みる」「心から恥じる」は、「節制」ですね。まだまだ自分は価値理解ができていないと改めて思いました。

関連価値が出てきて当然。それに流されなければ。しっかりそれらとの関連を整理すればよい、ということが分かりました。その技量を身につけたいです。

 

宇野弘恵先生の道徳授業観

Twitterで知った、私のお気に入りの一人は、宇野弘恵先生です。

以前から、「文体が素敵、文才がある、特に高学年の指導について的を射た具体的なことを書いておられる」と感じてフォローさせていただいていましたが、

道徳の授業について書かれていた夏のツイートに心震える思いがしたのです。

 以上のことは、下の先生の新著の前書きにも書かれていました。

 こちらには内容も紹介されていますね。 

www.meijitosho.co.jp

 

・・・わかっていてもできないこと、

大人になっても多いですよね。

それに、

わかっていると言いながら本当はわかっていないこともある。

 

したくても、自分ではどうすることもできない時もある。

 

宇野先生の「清濁併せもった自分という人間」という表現が好きなんですが、

まさに人間とはそんな存在ですよね。

 

そんな自分が、自分の人生をどう生きるか、

今も、これからも考えていけるようにする時間。

そんな授業ができたらなと、理想、信念を新たにした夏です。

 

それは、「自分を大切にする時間」でもあると思います。

どの教科の授業でも、子どもたちが自分の考えをもてるようにするけれど、

道徳の授業は特に、自分の生き方を見つめるわけで、

それは、自分の生き方、自分自身を大切に思わないとできにくいことだと思うからです。

算数での「どうでもいいや」も残念だけど、

道徳で「どうでもいいや」は悲しすぎる。自分の生き方なんてどうでもいいやと言っているように聞こえる。

せめてそうならないように、

本気で向き合いたくなる教材、発問、議論にしたい。磨いていきたいと思います。

 

そのための具体を少しでも形に。。。

本書で学んだことを形にしたい…

 

まず、一人一授業公開まであと4日(汗)