前回記事はこちら 「ほんとうの道徳」2
https://shochandoeeeesu.hatenablog.com/entry/2019/08/16/181713
あ、私がサマリーしなくても、こんな記事にまとまっていました!#苫野一徳 #ほんとうの道徳https://t.co/GJX7RG9E2j
— しょ@小学校♪母♪作曲♪漢字 (@Obachandoeeeesu) 2019年8月16日
前々回紹介したこちらにも。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2067168850022886&id=100001893735352
…でも、書きます!アウトプット!
今回は第2章です!
前回の「絶対に正しい」ということはあるのか?という話の続き。
カント(18世紀のドイツの哲学者)は、
「絶対に正しい道徳法則(定言命法)がある」と主張しました。
…何百年もの間、宗教戦争に明け暮れていた欧州。どうすればそれに終止符を打つことができるか。哲学者達は考えた。
当時の欧州人の道徳の源は「キリスト教」。だが、聖書に従って生きようと努めても、争いは終わらないではないか!
キリスト教から解き放たれ、「人間の理性の力」でよい生き方を考えよう!
この考えは、当時のヨーロッパでは画期的だったそうです。
そのカントの道徳哲学はこうです。
「『私達が自分自身に課しているルール(格律)』が、他の全ての人もまた守らなければならない法則と言えるかどうかを吟味せよ」
そして、誰もにとっても当てはまる普遍的な法則と言えるなら、自らの意志をもってその法則に必ず従え、と。
なるほどです! 道徳の授業でも、そうやって吟味すると深まりそう!
「誰にとっても、いつでも当てはまる?どんな時は当てはまらない?」と。
しかし、カントが言った具体的な道徳法則を見ると……
・困っている人には必ず手を差し伸べる
・自殺は絶対にしてはいけない
・返すつもりがないのに借金をしてはならない
・才能があるのにそれを発揮しないのはいけない
…ん? 誰でもいつでもそう言える?! 違う気がする…
やはり当時も他の哲学者が批判しました。
ヘーゲル(18~19世紀のドイツの哲学者)がその一人です。
例えば、「困っている人には必ず手を差し伸べる」と言っても、自分が困窮する。
「そんなの理想論だ!お説教だ!」と。
「哲学が本来めざすのは、そんなお説教をすることではなく、
どのような条件を整えれば、人は『よい』を目がけようとするのか、という、その現実的な道筋を明らかにすることだ」と。
…うんうん、確かに!
苫野氏曰く、カントの道徳哲学はヘーゲルによって乗り越えられ、その哲学は今なお道徳哲学の最高峰と言えるとのこと。
「絶対に正しい道徳法則なんて、ない。」
道徳というのは、結局、ある時代、ある共同体(国、地域、学校、家庭など)に限定された”習俗の価値”にすぎない。
ーーーそれなのに公教育で教えるの?
ーーーそれなのに特定の価値を押し付けるの?
異なる価値観との対立が起こるのでは? 道徳のはずなのに…
正義に見えて、自らの正義を掲げてかえって人を攻撃してしまう人が現れる。(「徳の騎士」)
宗教戦争もテロも、そうやって起こった。
では、どうすればよいのか?!
・・・・・・・・・・・・・
哲学者たちは、2500年にわたる思考のリレーを通し、ついにあることに気付いたのです。
正しい道徳をめぐって争うのはもうやめよう。そんなものはない。
道徳(モラル)を統一するのではなく、
どんな道徳(モラル)の持ち主も共存できるための「ルール」をつくり合おう!
この考えの立役者こそ、例のヘーゲルです。
①まずは認め合おう。(他者の自由を侵害しない限り)
②その上で、共存のための諸ルールをつくり合おう。
これは今日の市民社会を支える土台であり、
戦争の歴史の果てに、人類がわずか二百数十年前に見つけ出した知恵なのだそうです。
ちなみに「人権」という概念の発明も、近代ヨーロッパの哲学者たちによるものだそうです。哲学者たちが、まさに「ルール」として考え出したものです。
(…哲学の役割、哲学による発明なんて、これまで考えたこともなかった私。
わかりやすく説いてくださった苫野氏に感謝です。)
そして、ヘーゲルは、上に述べたことを「自由の相互承認」と言いました。
苫野氏がよく使う、いわば合言葉です!
…ん?自由?どこから出てきた、この言葉?
それは、2014年の著書「教育の力」等を読むと、よく分かります。
なぜ人間は戦争をやめることができないのか?
それは、わたしたち人間が、〈自由〉になりたいという欲望を持っているからだ!
「自由になりたい」「生きたいように生きたい」と思わない人もいるかもしれないけれど、
一生奴隷のままとか、好きなことを一切できない人生は嫌なはず。
一生奴隷になるくらいなら、命を賭けてでも戦ってきた。
家族を守る戦いも、食料や財産を奪う戦いも、「生きたいように生きたい」、「自由」のため。
どうすればこの欲望のせめぎ合いを防げるのだろう?
…例のヘーゲルがたどり着いたのが、こうです。
自由になりたいなら、お互いが、相手が〈自由〉な存在であることを認め合うほかにない!
もし力づくで認めさせ続けようとしても、長期的に見れば不可能。
だからこそ、
①各人が〈自由〉に生きたいと願っていることをお互いに認めよう。
②その上で、相互の承認が得られるように、互いの〈自由〉のあり方を調整しよう。
…お!青色で書いた部分は似ている!
①「認め合う」+②「調整(すり合わせ)」 ですね!
学校が子どもたちに育むべきは、”習俗の価値”であるモラルではなく、
この「自由の相互承認」の感度である、というのが苫野氏の主張です。
公教育は、すべての子どもに〈自由〉に生きるための”力”を育むことを保障するものであるのと同時に、
社会における〈自由の相互承認〉の土台となるべきものなのです。
そもそも、
道徳とは何か。
公教育で行う道徳教育は何をめざすべきか。
公教育とは何のためか。
これらを考えることで、私の中に芯ができ、
「どうあるべきか」を考えやすくなりました。
次回は、学習指導要領 特別の教科 道徳 に示された22の項目を
”習俗の価値”か、そうでないものか どうなのか、
具体的に見ていきたいと思います!
つづく
追記 2019/08/21
以前、職員室で同僚にここに書いた話をした時の感想は…
「せ、戦争?!そこに結びつくのか〜」
でした。
意外なんですね。
確かに、私にとっても初めは意外だった気がします。
そんな記憶、初心を呼び覚まされた夏の職員室でした!
追記 2019/08/23
「ルールをつくり合う」ことこそ大切で、それこそ「市民教育、市民道徳」
だけど、
「ルールをつくり合う」は、道徳科の目標、内容には入っていないんですよね・・・