多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

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「絶対の道徳なんて無い」で終わっちゃだめだ2・・・池田晶子氏の言葉

苫野氏の言うとおり、「絶対的な道徳なんてない」「なのにそれらしきものを公教育で押し付けるのはよくない」と思って過ごしてきて、

一昨日は萱野稔人氏の言葉に打ちのめされたが、

昨日はこの本に打ちのめされた。

姪っ子から見せてもらった中学国語の便覧で紹介されていた池田晶子氏の本だ。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

 

P159

悪いということは、だから時代や状況によって適当に変わるようなものでいついかなる時でも人にとって絶対に悪いということなどないように思われるにも関わらず、いついかなる時でも人にとって絶対に悪いということなどないという、あるいはないのだろうかと問う、これが可能なのはどうしてなのだろうか。もし本当に絶対に悪いことなどないのだったらどうして人はそれについて言ったり問うたりすることができるのだろう。なぜなら、ないということは「ない」のだから、もし本当にないのだったらそれについて言ったり問うたりすることはできないはずじゃないだろうか。それについて言ったり問うたりすることができるということは、それがある、あるいはあると知っているからなのではないだろうか。

絶対に悪いということなどないということができる限り、人は絶対に悪いということがあると実は知っているんだ。無論逆に絶対に良いということなどないということができる限り絶対に良いということがあるということもだ。どうして人はそれがあることを知っているのだろうか。いやそんなものは知らない、だって実際に時代や状況によって悪いことなど変わるじゃないか。いついかなる時でも絶対に悪いことなどどこにもないじゃないか。もし知っているならそれをそれとして示して見せて欲しい、と、世のほとんどの人は言うはずだ。まさにここで人間は間違えるんだ。悪いあるいは良いということを殺人や泥棒や売春などの悪いとされているあれこれの事柄を示すように示すことができるものだと思ってるんだ。でもそうやって示すことができるような事柄こそがまさに時代や状況によって変わるような悪いことなのだから、もし時代や状況によって変わらないようなことを、悪いことを示すことができたなら、それは時代や状況によって変わるような悪いことと同じ仕方で悪いことであることになってしまう。それならどうしてそれが絶対に変わらない悪いことであるはずがあるだろう。絶対ということはあれこれの相対ではないからこそ絶対なんだ。良いとは絶対に良いであり、悪いとは絶対に悪いであるということを、やはり知っているんだ。良いと悪いという言葉がある限り、人は良いと悪いと明らかに知っているんだ。善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根はとにかく深い。でも君はこれからの人、新しい時代の人なのだからきっと分かるはずだ。自分の外側にある道徳や法律が良い、または悪いとすることが、良いことや悪いことなのでは決してない。良いと悪いと判断する基準は自分の「内」にしかない。だからといってそれは人によって違う相対的なものでは決してない。なぜなら、良いという言葉があり、悪いという言葉がある、そしてそれらの意味を全ての人が知っているということは絶対的なことだからだ。良いと悪いという絶対的な価値の言葉を君は自分の内に確実に所有している。だから、それぞれの人によって全部が違う相対的な状況において絶対的な善悪を実現していくことができるんだ。

 

…自分の内に、良い悪いの基準がある。

…人は絶対に良いこと、悪いということがあると実は知っている。

 

言葉があるから?!?!

その言葉の意味をみんなが知っているから?!?!

 

…深い。

沼にハマりそうです。