多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

気が合う人、教育について語り合おうぞ!学習ソングも作曲中。

こんな提案したかった。6年「節度・節制」授業を終えて

(2019/10/04、2019/11/03 部分的に更新)

 

東京書籍の教科書の【「すんまへん」でいい】という教材文で校内公開授業をしました。

 

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2組
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こんな反省だらけの授業の指導案や写真を載せるのはいかがかとも思いますが、叩き台として、記録として載せます。

 

1組では前向きな意見が多かったのですが、翌日2組で行った時に、微妙に発問を変えたせいもあってか、価値について考えを深められなかった子が半数近くおり、

子どもたちへの申し訳なさと、自分へのいらだち、悔しさ、落胆で、当分の間落ち着きませんでした。

授業直後は、ある男子と「勉強VS目先の欲望」について語り合った後に、

「あの問い返しをしてあれを書くつもりだったのに忘れてた」「いつものことだがまた私ばかりがしゃべっていた」等が頭を駆け巡っていましたが、

その後、

「計画が甘かった」「問いかけに無理があった」「やはり、主人公の心情を問う王道の発問にすべきだった」と、

根本的な問題について思いが至りました。

 

その後、いろいろなご意見ご感想をいただくことで、

子どもたちは何に、どうしてつまずいていたのか、

主発問や終末、切り返しの代案 等に気づきました。

 

夜道を家路につきながら、この反省だらけの授業、

「そもそもなぜ、あえてこの流れでいこうと思ったのか」

「何を提案したかったのか」

と、ふと思い、自分でも忘れてしまっていましたが、思い起こしました。

それを書きます。

 

………

1つ目。『教材文の登場人物の気持ちを問うていくことが中心の方法』以外のタイプの授業がもっとあってもいいのではないか

 

私は自分が子どもだった頃、(学習意欲は旺盛な方でしたが、)道徳の授業を興味深く感じませんでした。

物語を読んで、どこか綺麗事のように感じ、そんなに共感できないものも多く、

「この時の主人公はどんな気持ちだったのでしょう」と尋ねられて、とりあえず考えるけどあまり思い浮かばず、または先生が求めていそうな答えを考えて言って、

最後はわりと分かりきったことを先生が言ってきれいにまとめ、

心にそこまで響かない、

そんな時間が多かったように思います。

 

しかし、一つだけ、今でも覚えている授業があります。

確か中学年で、公開授業でした。授業が終わった後で、他の先生が「○○さん、ええこと言うね〜」と言いに来られたのも覚えています。

 

「あだ名はよくない」というようなテーマの授業でした。教材文で学習し、賛成は帽子を赤に、反対は帽子を白にしてかぶって話し合いました。

私は、実際の友達の例を挙げながら

「よいあだ名もある。だって、○さんは『なすび』って呼ばれて嫌そうではないもん」と訴えました。

最後には、その気持ちも多少揺らいで、赤白帽子をウルトラマンみたいにしてかぶり、授業後も「うーん」と腕を組み考えていました。

 

「学活みたい」と言われるかもしれませんが、これも道徳授業。

(このような批判はよくあると、苫野一徳氏も著書で述べておられます。)

 

自分が教師になって、

子どもの頃の私のような感じ方をしているのだろうと思われる児童に何度も会いました。

 

そしてこう考えたのです。

「例えば、物事の理解に、視覚優位の人も、聴覚優位の人も、言語優位の人も、図式や体験優位の人もいる。またその物事の内容の特性にもよる。だからいろんなタイプの授業をする。

それと同様に、道徳の授業も、

『教材文の登場人物の気持ちを問うていくことが中心の方法』以外のタイプの授業がもっとあってもいいのではないか

 

例えば、どこかの4年の教科書に載っていた、おでこにカラーシールを貼って、しゃべらずに同じ色の人と集まる、のような、(山口県のアフピーみたいな)活動をしてその振り返りをする等の授業もありなのでは。

例えば、教科書教材文は割とさらっと読んで、自分の生活を見つめ直しをメインで行ったり、

例えば、「あいさつ」を哲学対話で本質観取したり、

のび太ジャイアンの出来事3つを比べて友情かどうか分析したり、

教材文の主人公と、身近にいそうなAさんの話を比べて、違いは何か話し合ったり、

もっと自由な発想で行う授業が増えてもいいのでは、と

思ったのです。

そういうのこそ今道徳授業に求められているのではと、昨今の動向からも感じています。

 

 ・・・・・・・・・

 

2つ目。

自分の生活を最後に少し振り返る授業ではなく、

後半はじっくり自分の生活を見つめ、その時の心情を見つめ、それについて語り合うような授業もあってよいのではないか。(特に今回の「節度・節制」などは。)

今回は、自分をよりよく見つめる方法の1つとして「自自会議」(自問自答)を提案したわけです。

(これは同僚からは好評もいくつかいただきました。)

 

・・・・・・・・・・

3つ目。

子どもは有能、子どもは哲学者、一人の人格との児童観、

教師も子どもと共に考え話し合う存在に。

「上から目線」からの完全撤退。

 

・・・・・・・・・・

4つ目。

「これからはこうして行きたいです。」といった、本当の気持ちかもしれないけれどどこか表面的、いいこちゃん的な振り返りばかりではなく、

「でも、〜〜ともいえるんじゃないかな。

それって、こういうこと?

でも、こんな場合は?

どこか引っかかる。

どうして〜なんだろう。

本当にそうだろうか。

ここをもっとみんなに聞いてみたい。」

というような、授業完結でない振り返りが出てくるような授業

 

・・・・・・・・・・

 

5つ目。

自分の生き方を本気で考える時間がある授業。

 必要感がある授業。

 

・・・・・・・・・・

6つ目。  価値理解もだけど「人間理解」に迫る授業

例 失敗しないと心底反省できない所があるかも

  分かっていてもついやってしまう、欲求の強さ、性

 

……

こう書いていると、落胆の気持ちは消え、

やっと次への意欲が湧いてきました。

 

失敗の前、後、うんぬんではなく、

とにかく、自己を省みて、次に生かしていく。

 

……あ、これ、今回の授業でやりたかったことだ!

 

 

(追記2019/09/28夕方)

この教材文を読んだときに思ったことは、

主人公は、

心から反省して、おやじさんにも誠意をもっておわびの言葉を伝えた。

けど、「弁償させてください」という言葉は、「それで許してほしいと思っている」「責任を軽く見ている」と思われても仕方のない言葉だった。

そのおやじさんの教えも重く受け止め、おやじさんにも、器に対しても、心底申し訳ないと思う主人公。

素直だ。

こんなおやじさんをもって幸せだと思う。

 

重みのある、すばらしい教材文だと思います。教師からすれば、主発問にふさわしい山場もある。

 

しかし、今回は敢えて教師目線を捨てて読んでみた訳です。

 

綺麗事があまり好きでない一般の方の目線を想定して。

「開かれた教育課程」ならぬ「開かれた道徳授業計画」ですね。 

 

 

すると、こう思えてきました。

 

そりゃ、隠しようもない失敗だから誰だって正直に言うしかないし、全部一人でやったこと。

人のできたおやじさんとこんなに信頼関係があれば、心から反省もできる。

 

けれど、私達の日常生活で、そんな場面はどれだけあるか。

 

たいていは、

自分だけがやったことではない等、自分だけが悪いとは思えない場合や、

そこまでの大失敗ではない場合、

言わなければバレないかもしれない場合、

そこまでの信頼関係がない相手の場合、

相手が知らない下級生だった場合で、謝らなくても何とか済みそうな場合、

誰のものか分からないもの、公共物の場合、

親とか先生が相手で、素直に謝りたくない場合、

相手が友達で、何となくなあなあに済ませられる場合、

そこまでの迷惑をかける相手がいない場合、

将来への影響が具体的に分からない場合…

 

そんな状況で素直に反省できない場合の方が子どもたちには多いのではないか。

 

さらには、振り返りとして、

「あの時もう少し注意しておけばよかったと思うことを振り返る」が例として教科書に書いてあるが、

 

それはもう反省していること。

また授業で振り返るのか?

その時間があるなら、

まだなかなか反省できないことを振り返る方が今後のためになるのでは?!

 

もっと「目先のことへの欲求」と「その自制」に目を向け、しかも、日頃深く反省しにくいことに目を向けさせたい…

その思いで、「今これをしたいという気持ちのせいで他のことがおろそかになったことは?」と事前アンケートで問うたのです。

 

たとえ今回の振り返りで「ああ、〜〜だからやっぱり改めよう」とならなくても、

なぜなかなか反省できないのか、

普段じっくり考えもしないことを考えるチャンスになる。

 

そう思ったのです。

 

私が子どもなら、その方が授業に熱中する。

 

そう思ったのです。

 

  

 

……「失敗」「失敗の前に」という言葉を発問等に使ったことは、まずかったと思います。失敗にも、命や大金が関わる大失敗もあれば、寝不足のような小失敗もあるし、

失敗を避ける、失敗を防ぐ、ばかりでは、挑戦を避けるようになるし、

私達は失敗を含め様々な体験をする中で成長する訳だし、

失敗かどうかに関わらず内省し成長の糧とすることが大切だと思うからです。

 

実際、子どもたちの中には、どの程度のことを失敗と私が言っているのかで困惑していた子もいたようです。

また、「失敗のない人生は無理だ」と言い切って思考停止になっていた児童もいました。

 

後半の発問はシンプルに、

「今これをしたいという気持ちのせいで、今やるべきことをおろそかにしないためには?」

だったらまだよかったかもしれません。

 

 

…ワークシートにしっかりコメント書いて、道徳通信なるものを書いてみようかと思います。

 

 

話はそれますが・・・こういう教材研究、事後研究の時間、普通学級担任は忙しくて、取りにくい。

その現状を変えたいという思いも、今、改めて湧いてきました。

 

 

 

(2019/10/02追記)

私がなぜ教材文の後半部分(クライマックス)に焦点を当てなかったのか、自分でも忘れかけていたので、思い起こしてみました。

 

もし「おやじさんに諭されて、主人公はどんなことを思ったか」という発問だと、「弁償すると言ったのは浅い考えだった」「なぜ弁償すると言うのがいけなかったのか」というところに焦点が当たったり、「おやじさんはこんな私に厳しくも温かい言葉をかけてくれた」と、おやじさんがどならなかったことへの感想が出てきたりして、

主人公の欲求や自制についてのみ話し合うことが難しい。

そしてその後の自分自身をしっかり見つめる時間が取れない、と考えたからです。

また、価値項目「正直・誠実」「礼儀」の授業になりそうだ、と感じたからです。

(実際に価値項目「礼儀」で扱っている教科書もあるようです。)

 

けれど、今思えば、内省や節制には正直さや誠実さは必要なので、臆することはなかったし、

「なぜ弁償すると言うのがいけなかったのか」という話し合いになっても、「お金で償えば許してもらえる、責任逃れのように受け止められる」→「自分が本当に悪かったと思うことを何よりも先にすべき」→「主人公は『自分が悪かった』とすでに思っているはずだ。何を反省しているのだろうね。」と、

自制できなかったことに目を向けることもできたと思います。

 

…けれどそれでもやはり「内省」というより「謝罪の仕方」の話に時間がかかりそうだと感じ、私には自信がなく、

それならばと思い切って前半部分のみを問うたのです。

 

・・・そもそもの自分の思考が整理できて、ちょっとスッキリ。

 

 

ということで、

もし、「前半部のみに焦点を当て話し合い、授業後半は【自自会議】」という授業構成を変えないのであれば、

代案としては

「店に戻る時、主人公は、何を反省し、どのように思っていたのだろう」

「『今これをしたい』という気持ちで、『今するべきこと』をおろそかにしないために大切なことは何か。自分のこれからの生活に生かしたいことは何か。」

 

 

もし、授業構成を変えるのであれば、

「おやじさんの言葉を聞いて、むねがいっぱいになったときの主人公は、どう思っていたのだろう」

 

 

いかがでしょうか。

ご参考になれば幸いです。