多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

気が合う人、教育について語り合おうぞ!学習ソングも作曲中。

11「相互理解・寛容」について考えた  「銀のしょく台」(東京書籍)を通して

2019/10/17 一部追記 

11 相互理解,寛容

〔第3学年及び第4学年〕 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,相手のことを理解し,自分と異なる意見も大切にすること。

〔第5学年及び第6学年〕 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を尊重すること。

(中学校) [相互理解,寛容] 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し, いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと。

 

 

■内容項目は「相互理解、寛容」

この項目は1・2年生には無いのだな。ふむふむ。それほど相手のことを理解すること、広い心をもつことは高度なことなのだろう。確かに小さい子は自己中心性の塊だ。

 

 

「相互理解」すれば「寛容」になれるし、「寛容」になれば「相互理解」が進む。表裏一体だから一つの項目になっているのだな。なるほど。

 

だけど、学習指導要領には「謙虚で広い心」とも書いてあるし、教科書の見出しには「みとめあう心」と書いてある。教師用指導書には主題名「過ちを許す」と書いてある。けれど、これらはイコールではないように思う。

あえて表すならば、

相互理解≒みとめあう心

寛容≒謙虚で広い心≒みとめる心   みとめる心∈みとめあう心

寛容∋過ちを許す心  か。

 

コトバンクに、ブリタニカの解釈が載っていた。これが興味深い。

https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E5%AE%B9-49716

元来は,異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたのであるが,やがて少数意見や反対意見の表明を許すか,否かという言論の自由の問題に転化し,ついには民主主義の基本原理の一つとなった。ボルテールは「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」と語り,これは寛容の精神をよく示した言葉として引用される。だが寛容には限界があるとされている。まず第1に,理性,良心,真理への信念に基づく言説にのみ適用すべきである。第2に,民主主義を破壊しようとする言動に適用してはならない。ワイマール共和国がこの限度を知らなかったために悲劇の道をたどったことは歴史的教訓として記憶されている。

 

指導要領の「それぞれの個性や立場を尊重し, いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び」というのは、上のように「人権を守る」ということであり、民主主義の基本原理の一つなのだな。

 

■寛容はなぜよいのか。なぜ大切なのか。寛容だとどんなよいことがあるのか。

(許すことのよさ、 謙虚であることのよさ)

・人から信頼してもらえる。寛容でない、つまり、他人に厳しかったり、他人のせいにしてばかりだったりすると、信頼されない場合や好かれない場合が多い。

・寛容は謙虚さから来るもの。「自分も(うちの子も)そうしてしまうかもしれない」と自分に謙虚になれる。自分を省みることができるので、自分が成長できる。人のせいにしてばかりの人生より幸せになりそう。(自分にプラス)(自分のせいにしてばかりだと精神を病むかもしれないが)

(これが、指導要領解説に書いてある「寛容さと謙虚さが一体のものとなったとき、広い心が生まれ」ということか。)

 

・厳しさに怯えて行動するよりは、のびのびと、お互い安心して行動できる。→よいパフォーマンスが発揮できる。(お互いのため)

・許してもらえると自分も許そうと思う。寛容の好循環が生まれる。(社会全体の幸せにつながる)憎しみの連鎖を断ち切れる!

 

・相手を許すと、別の機会に自分が許してもらえる。(自分の得の期待)

・「優しい人」になれた気がして、自分で気持ちがいい。(自己満足)

・例えば、「え?また飲み会?多すぎない?…まあ、でも、自分も好きなようにさせてもらっているからなあ。お互い様だ。いいよ。」と、優しくなれるし、イライラしなくてすむ。相手にも優しく甘く、自分にも優しく甘くなる。(結局、自分に甘くなるため?)(優しさと甘さは似て非なるものだと思うから、そこは改めてよく考えてみなきゃ…)

 

以下、教材文「銀のしょく台」を通して、「私自身が」考えたくなったこと、考えさせられたことを書きます。そのまま発問にはできないものも含まれますがご了承を。

 

■初めて会った人で、元罪人で、泊めてあげてご飯もあげたのに、夜中に銀の食器を盗んでいった。

物語の時代でも、今の日本でも、ミリエル司教のようにそんな盗人を寛容にかばう人は少ないはずだ。実際に、盗みは法律では許されないことだ。

それなのに、ミリエル司教はジャンが銀の皿を盗んだことを許し、しかも、銀の燭台まで渡して手を差し伸べた。

①まず、ジャンが盗みを犯して逃げたと知った時の司教の気持ちはどうだったのだろう。どういう考えからジャンを許したのか。

②一体、ミリエル司教はどんな思いで燭台まで手渡したのだろう。

③ミリエル司教をそうさせているものは何なのだろう。

 

・「泊めてあげてご飯もあげたのに」ではなく、「泊めてあげてご飯もあげるのは、司教として、いや、人として、当たり前だ」。だから「恩を仇で返したな」とはさらさら思っていない。

・19年も監獄に入れられていた。しかも罪人への世間の風当たりも厳しい。それらが彼の心を荒ませてしまったのだ。同じ状況なら、誰だって、私だってそうなるに違いない。

・もともと、銀の食器は、貧しい人たちのものだったんだよ。私達がまちがえていたんだ。

・思えば私達は贅沢をしていた。木の器で十分だ。

・私達が彼を新たに盗人にしてしまったとも言えるのだ… どうにかできなかったのだろうか。

・どうにか彼を救えないだろうか。

(・元罪人に銀の器でふるまったり銀の燭台を出したりしたのが間違いだった。質素にしておけばよかった。←こう考える人もいるかも。)

私見】同じ修道院で過ごすキリスト教徒でも、マグロワースさんとミリエル司教とでこんなに感じ方がちがうのだなあ。それほど「愛」を体現するのは難しいのだろう。

 

②③

・これまで、本当に辛く険しい道を歩んでこられたのですね。

・私はあなたを信じています。食器と燭台を売って得たお金で、力強く、優しく生きていけるように願っています。神のご加護がありますように。

・彼が苦しいのは、貧しさと世間の冷たさのせいです。本当に責められるべきは、そちらの方です。

・長い罰を受けても盗みを犯したということは、もはや、罰を与えても改心はしないということです。彼には、愛、慈悲こそ必要なのです。

・「神の前ではみな平等」。罪を犯した人もです。それを実践するのが我々の使命です。

(・修道院等は、寄付を受ければ、生活に困ることはない。このくらいあげても大丈夫。←こう考える人もいるかも。)

・冒頭の引用、ボルテールの言葉「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」を使えば、

「君のしたことは罪だから賛成はできないが、君が生きていく権利は自己犠牲を伴ってでも守ろうと思う」こんな信条か。

しかし、それとも少し違う気がする。司教は、「自己犠牲を犠牲と思っていない」ように感じる。銀の食器はもともと貧しい人のもの。私のものではなかった。だから犠牲でも何でもない。我々が間違っていた。(この発想が一般的との違いか)

・うそをつくことはいけないこと。しかし、窮地に立たされた貧しい人を救うためなら、うそも方便。

 

 

■もしそこそこ意見が出たならば、それらを比較・吟味する中で、より価値に迫る。

「どれがミリエル司教の思いに近いと思うか」または、「どれに納得したか」「どれにも納得できるか」(比較・吟味)

(明確な答えはないが、比較・吟味し理由を述べることで、「Aさんの意見の方が『上から目線』な感じがしないから」とか、「Bさんの意見の方が、今だけでなく、これからずっと捕まらないで生きてほしい、幸せになってほしいと願っている感じがするから」「家族のように心の底から思っているところに納得」などと、それまでに出なかった言葉で表せ、自身で気付けるはず。)

 

■しかし、司教の寛容さ、愛は、宗教的なものも含まれ、子どもたちには(いや、私にも)理解が難しいところなので、表面的な意見しかでないかもしれない。その場合、どうすれば深く掘り下げて考えることができるだろうか…

「これで心を入れ替えてほしい」「これで捕まらなくてすみます。もう捕まらないようにね。」としか意見がでなかったら…

例えばどう問い返す?

 

「それなら、銀の皿をあげただけでも捕まらなくてすむし、改心もできるのでは?」

「なぜ、銀の燭台まであげたのだろう」

https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/q4um/?id=20190023

こちら記事にもこの発問が載っていますね。

「それだけ、あなたを信じているという愛を伝えたかったのでは」などの言葉が出てくるかもしれない。

いかがでしょうか。

 

 

もう少し突っ込んで考えてみる。

■(実際に、ジャンは改心した。

https://ameblo.jp/minetofactory/entry-12105562570.html

ジャンは燭台を売らずに最期の時まで持っていたし、憲兵に追われながらも多くの人を救い、その姿に心を動かされた人も数多くいる。)

ミリエル司教の愛が彼を変えたのだ。これは尊いことだ。

 

ではどうして私達は一般的にはミリエル司教のようにするのが難しいのだろう。

 

(したくない・したいけどできない・したいかどうか分からない・・・いろいろある)

A「許したくない」場合

B「許したい、それが理想、だけどそうもいかない」場合

C「許すべきか許さざるべきかよく分からない」場合

 

A

・自分の不利益で、被害者感情、怒り、不満が収まらないから。時間が経てば薄れていく場合もある。相応の制裁があれば少しは和らぐ場合もある。

B

・許したいけれど、自分が損をする。自分の物やお金や時間がなくなる。きりがない。(自分を守るため)

・一人許したら、他の人がもし同じように表れた時に同じようにしなければ不公平になる。財産や時間に相当の余裕がなければ、同じようにできないだろう。結局、その不公平な自分に葛藤が起こる。(自己矛盾)

・≠ 相手のことを思うからこそ、改心のためには厳しく罰したほうがいい。(あえて許さない)(相手のため)

・結局、人間は甘やかされると甘えが出て、易きに流れてしまう、という考え方からくるもの。(だから世の中には法律があり、刑罰がある。法治国家。)(世の中の秩序のため)

・ミリエル司教の言動は尊い。そのような愛が人を救う場合がある。が、そうでない場合もあるだろう。全ての人がそうあるべきとは思えない。そのような人の意見は尊重するし立場を認めるが、自分はならない。

 

…そうそう、これだ! 思い出した。

https://edupedia.jp/article/53233f8e059b682d585b6108

山口が生んだ道徳教育人、坂本哲彦先生の実践を読んで、いつものように勉強させていただいたものの、今回はどこかひっかかり、それがどこでなぜなのか、今わかった。

https://www.meijitosho.co.jp/eduzine/q4um/?id=20190023

こちらの実践も、大変参考になったが、

 

「寛容」「みとめ合う心」の授業をしながら「司教が理解できない」「それは理想論」一点張りの児童がそのまま授業を終えるのはまずいと思う。

「理解しにくい、実践は難しい、けど理解しようと努力するし、立場は尊重する」

そんな授業に私はしたい、そう思うのだ。

 

 

 

■この教材文を使用しての授業を通して私が子どもに気づかせたいことは何だろう…

 

「許すか、許さないか」それも関心事だし切実だけど、

それよりも、

 

理解しがたいと思われることも理解しようと努める姿勢、受け入れる姿勢、それが人を救うこともあり、さらにそれが他の人を救うこともあるということ かしら。う~ん。

 

「寛容」つまり「許す」の授業だと思ってきたけど、

「相互理解」の方に近いのかな?(もちろん2つは表裏一体だけど。)

 

ならば、私は授業で、「自分ならどうするか」の話し合いで時間はとらず、(もちろん、自分ならこうはできないなどと自分事として考えるけど、)

とことんミリエル司教の心情、信条を考える授業にする……??

 

相当の工夫が必要。

 

 

■それと、どのように自分を振り返る?生活と結びつける?(または今回はそれを求めない?)

 

「司教のように、盗みを許すのは実際には難しいだろうし賛否両論。しかし、

一見理解できないと思ってしまう人のことでも、理解しよう、尊重しようとすることならできるし、する必要があるのではないか。

自分の生活を振り返り、もっと広い心で接したい、接すればよかったと思うことはないか。」

 

…これまた難しい。

 

 

また、今後、考えてみます。

 

 

 

 

 

もう少し突っ込んで考えて・・・ 人間理解。

 

 

■寛容になれる場合となれない場合があるなら、どんな時に寛容になれないのだろう。(上の、なぜ一般的にはミリエル司教のようになれないのか、と似た問いだが)

そして、どうすれば寛容になれるのだろう。

 

・罪の重さによる。身勝手な殺人や暴行、強盗なら許せないし、娘への薬を買うためのお金を払ったら手持ちのお金がなくなってパンを盗んだとか、脅されてやったとかなら同情できる。寛容になれる。

・何度も何度もよくないことを繰り返すのは許せない。

 

もし、同じように「家にある高価なものを盗んだ」という設定では・・・

・初めて会った人だったら許すのはなおさら難しい。改心するかどうか分からないし、今後共に過ごさないのであれば、改心したかどうかも確かめにくいから。

・今後も付き合い続ける、これまでも信頼していた人なら、まだ許す気になる。

「どうして?きっと魔が差したのだろう。」と思える。今後も付き合いたい人なら、許した上で付き合い続ける。これを機に粗縁にしたいと思えば、「いいよ」とは言いながら、「(付き合うのは)もういいよ」と思う。

・日頃から信頼できない人だったら、「やっぱりね」「こんな人に近づくのではなかった」と思う。許したくないが、近づいた自分を情けなく思い、諦める。

自分から近づいたのではなく、自動車事故のように相手から近づいてきた場合は、余計許せない。でもいつまでも腹を立てて精神を消耗するのは自分が損なので、割り切ろうと努力する。「運が悪かった」「これから稼ぐしかない」と。

・特に、相手が反省していない場合は、許せない。でも、本当に悪い人で、訴えると余計に仕返しをしてきそうな相手なら、「そういう人も世の中に入る。さっさと手を引いて関わらないようにしたい」と思う。「許す」のとは違い、「諦め」。「天罰よ下れ!」と思うが、それも消耗なので、「そういう人はどうせ幸せな人生は送れない。自業自得」「私はこの不幸を乗り越えてこれから幸せになれる!」と思って切り替える。

・自分が追い詰められている時。精神的、肉体的、時間的、経済的に… 自分を守ろうとする防衛本能が働くので、他人を責めてしまう。

 

※もし相手が子どもや家族なら…話は全く別。

家族なら、余計に許せないかもしれない。でも、やはり、どうにかして改心してほしいと願い、できるだけのことをすると思う。教え子にも、改心してほしいと思う。

 

 

■…あれ?そもそも「許す」ってどんなことだ?

心から「いいよ」「全く気にしないよ」と思うことかな?

許すとは  で検索してみると、

https://www.google.com/search?q=%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF&rlz=1C1SQJL_jaJP809JP809&oq=%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF&aqs=chrome..69i57j0l4j69i61.8234j1j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8

「さしつかえないと認める。願いなどを聞き入れる。罪・とが・負担を免ずる。禁を解く。」

 

…「本当に許す」のと「許したふり」とは違うなあ。

私がしてきたのは「許したふり」かも。

結局、自己都合が多いから・・・

 

・・・・・・・・

2019/10/21追記

「許すとは?」についてもう少し考えてみました。次のブログです。

(それを基にした問いも)

https://shochandoeeeesu.hatenablog.com/entry/2019/10/21/055336

・・・・・・・・・

 

 

★長い教材文を(支障がないように)短くできないか。

自分なら、ジャンが銀の皿を盗んで逃げる場面(P130「(あれは、」から、P131の「暗闇の中へ逃げていった。」まで)を3.4行にまとめる。

序盤は、ジャンの服役の長さや、疲れや空腹、司教があたたかくジャンを迎え入れたことが表れており、それは司教の愛、ジャンを受け入れる気持ちを理解するのに必要な前提だから、短くしない方がよいと思う。

P132の上段の司教とマグロワースのやりとりは短くできなくもないが、司教が食器かごを見つけてからしばらく考えていたこと(その間、疑ったり腹を立てたりしていない)を表しているから、司教の性格や心情を考える上で必要だと思う。

 

 

■追伸

東京書籍の教科書で5年生の時にどんな教材文で「相互理解,寛容」を学習したのか気になって調べてみると、「名医、順庵」というものだった。教材研究として、それと比べてみるのもよいと思う。

 

 

追記2019/11/04

坂本哲彦氏のこちらの著書の最後に、「銀のしょく台」の別案が載っていました。

改訂を反映し、しかも氏の主張を盛り込んだものになっています!

shochandoeeeesu.hatenablog.com