多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

気が合う人、教育について語り合おうぞ!学習ソングも作曲中。

「許す」とは何か 道徳「銀のしょく台」を通して(続編)

前回記事↓ の続きです。

shochandoeeeesu.hatenablog.com

 

道徳教科書の「銀の燭台」について考えていたら、

「『許す』とはそもそも何か」

ということについて自分の中でよく整理できていないことに気づいて、

ネットでも調べてみました。

 

その中で、下のページに、こう書いてあったことが印象的でした。

https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=1898&comment_sub_id=0&category_id=287

「『許す』とは過ちを犯した人間が謝るなり金品等で補償してくれたら、などの条件がつくが、

『赦す』は過ちを犯した人間を無条件に受け入れることだ」

 なるほどです。

条件付きの「許す」

無条件の「赦す」

 

 

「時が経てばゆるせる」とか、

「ゆるさないと自分の都合が悪いから」「ゆるした方が自分が得だから」というのも

「許す」の方に近いと思います。

 

司教は、謝られてもいないし、何の条件も無く、ジャンを受け入れた。

「赦した」のですね。

 

「無償の愛」と近いと思います。

 

 

 

先日参観した授業で、最後にある子が「これって実話ですか」と尋ねていました。

実話だとより説得力が増すと感じたのでしょう。

確かにそうですね・・・

 

レ・ミゼラブルはもちろんフィクションですが、

マザー・テレサ等、実話でも「赦し」の逸話はありそうです。

けれど、マザー・テレサでも、煩悩だらけの私とはかけ離れた遠い存在に感じるのは私だけでしょうか?

そう思いながらいろいろ読んでいくと、

こちら↓を見つけました。

http://seishonyumon.com/coach/509/ 

・宣教師の家族の話

キング牧師の話

・ライアンを赦したヴィクトリア婦人の話

 

ミリエル司教のような方が現実にいらっしゃるんだなあ。

 

 

 

しかし、現実であろうとなかろうと、これは言える。

つまり、

 

「『許す』ことは難しい場合があるし、『赦す』ことはなお難しい。

それでも、多くの人は、司教のように『赦す』ことに憧れ、尊いと感じる。」ということ。

 

それはなぜだろう。。。(これ、授業でそのまま発問にできそう)

 

・自分の気分を穏やかにするために許そうとする、とかではなく、100%相手を思っているから かな。

・どこまでも謙虚だから かな。

・相手を信じているから かな。

信じれば信じるほど裏切られた時に自分が傷つくのに、それでも信じるから かな。

・難しいから かな。

 

いや、たとえ裏切られても司教は傷つかないのかもしれない。

…あんなに信じた『のに』と考えることは、見返りを求めている心の表れだから。

 

 

考えれば考えるほど、難しいことだな・・・と思います。

(だからこそ憧れるのでしょうね。)

 

 

では、自分の人生に少しでも生かしていけそうなことは何だろう。

 

…謙虚であること。

…憎しみの連鎖を止めたい と思うこと。

…平和な世の中を願うこと。

 

ですかね。

 

 

この問いで授業または哲学対話をやってみたくなりました。

 

2020/11/09 追記