多趣味おばちゃん 小学校教員のメモ

気が合う人、教育について語り合おうぞ!学習ソングも作曲中。

学校の勉強はしなくてもいいの?

koukishinousei445.blog.fc2.com

今度、参観日の学活で「なぜ勉強するのだろう?」についての授業が6年生であります。

そういえば過去、このことは私の関心事だったので、記事を書いたなあと見返したら、出てきました。転載します。

今見返すと、ほぼ今も同感。でも、まだまだ書きたいことがでてきました。それままた今後の課題に。

 

生徒:私は将来、何となくだけど小学校の先生になりたいと思っていて、大学の教育学部に進学したいと思っている。もし先生にならないとしても社会のことを広く勉強したいからその意味でも大学に進学したいと思っている。だから高校の普通科に入学したんだけど、正直に言って、高校での勉強がおもしろくない。苦痛。

おばさん:そっかあ。なぜ勉強がおもしろくないと思うんだろうね?

生徒:だって、中学までの勉強は人生の役に立ちそうなことが多いし、少し頑張れば理解できて楽しかった。でも、高校の勉強は受験以外の何の役に立つのかわからないし、身近なものと結びつかない。それに格段に難しい。例えば古文、歴史、数学、化学・・・覚えないといけないことが多い。それに部活とか生徒会とか遊びとか、勉強の他にやりたいことが多くて勉強しないから、余計勉強が分からなくなっておもしろくない。悪循環だよ。勉強しない自分のせいだけど、やる気が起きない。

おばさん:なるほど。確かに、勉強内容が役に立ちそうにない、身近に感じられないのはその通りだと思うよ。極論を言えば、学校での学習の内容は
 生活上の基礎・常識  というよりも
 学問上の基礎・常識  なんだと思うよ。

小学校の勉強はその二つが重なり合っていた。けれど、中学、高校と、上に上がるほど、その重なりは小さくなっていく。だから実生活とのつながりが実感しにくくなる。

生徒:なるほどね。学問に役立つものであって、生活に役立つものとは限らないんだ。
でも、古文も歴史も学問上の常識なの?かなり専門的だと思うんだけど。数学や化学は理系の人だけが勉強すればいいでしょ?高校で全員が学ぶ必要ある?

おばさん:いろいろな学問の基礎なんだよ。古文漢文はどの学問でも昔の資料を読むのに必要。古文漢文が読めなくても誰かが訳したものを読めばいい、けれど、訳というものは訳者の解釈が入っている。それに、訳されていないものは読めない。
歴史もそう。どの学問分野でもそれがいつの時代にどのように発見されてきたか知るためには、そもそも世界や日本がどんな歴史を経てきたかを知らないと分からない。
数学は、とにかくいろいろな学問分野に使われる。文系科目、例えば社会科学の統計や、あなたの好きなスポーツにだって高校数学が必要なことがある。運動力学やスポーツ社会学で調査結果を分析する際にね。

中学高校の間にはまだ将来就きたい職業や進みたい学部がはっきりしていない人が多い。だから、将来どの道に進むこともできるように、それらの学問の基礎となるものを高校は必修科目としているんだよ。
学年が上がるにつれて選択科目が増えていくでしょう。それは将来進む道をだんだん絞っていきましょうということだと思うよ。
それに、どの分野も他の分野とつながっているものだから、専門家にも幅広い視野はあった方がいいものだからね。

生徒:ふむふむ。いろいろな学問上の基礎だし、将来の選択肢が広がり視野も広がるというのはわかったけど・・・
う~ん、でも、実際に将来、学問を追究する人は少ないよね?例えば経済学を究めるというより商社に入るために経済学部に入るっていう人もいるよね。むしろその方が多いのではないかな。
それに、幅広い視野っていうなら、教科書に載っていることよりももっといろいろなことを勉強した方が視野が広がるのでは?例えば世界各国の文化とか、軍事力のこととか。

おばさん:確かにね。でも、少しの人でも学問を追究する人がいてくれるから世の中が発展してきたのだから、学問は大切だよ。国にとってはそれは死活問題だから、そういう人材を確保したいっていうのが本当のところかもね。
ではそれ以外の人には学問の基礎はメリットがのないかというと、そんなことはないと思うよ。
どんな目的であれ経済学部に入る以上は経済学を勉強して単位を取るのだから、その基礎になる学力は必要だよね。
何より、教科書に載っていることって、人類の英知の結晶だよね。本当はどれもが大発見だったことなんだ。学校ではそれをただ淡々と教えることが多いからおもしろく感じられないと思うけど・・・ 私もそうだったしね。大人になって、いろいろな本を読んだり調べたりするとおもしろさに気付くことがたくさんあるよ。数学も化学も一から勉強し直したいくらいだよ。学校の勉強で勉強が嫌いになるのはもったいないと思う。

生徒:へえ、勉強し直したいの?!だったら私の代わりに授業に出てよ(笑) 私はちょっと現場で働いてみたいからさ。
感動なんて全くないよ。歴史、化学、生物などなど、どれも暗記しないといけないことが多すぎる!!嫌になるよ。

おばさん:確かにそうだよね。分かるよ。私も高校時代は全然勉強していなかったのよ。受験まであと1年弱ってところで、本気で教員になろうと決めて、お金がかからないように国立を目指して、そのためには5教科まんべんなく必要だから、必要な勉強を必死にやった。でも受験が終わったら、特に歴史や数学はほとんど忘れちゃった。もったいないと思う。
それならば、例えば、「なぜ戦争はなくならないのか、これまでの戦争はどのようにして起こってきたのか」「公教育はどうあるべきか、これまで国内外で教育はどのように行われてきたか」「非婚化晩婚化はなぜ起こるのか、結婚の在り方はどのように変化してきたか、また外国の場合はどうか」「地方の過疎化は防げないのか」などのテーマを自分で決めて調べてまとめて発表し合うみたいな学習の方が有意義だと思うよ。でも、それだと身についた力を受験で測るのは難しいね。

生徒:そうそう!そういう勉強ならしたいんだよ。それにね、主要教科だけでなくて、教科の枠を超えたテーマ、例えば、さっきも話に出た、世界の文化や軍事力の話でもいいし、環境とか生命倫理、働き方、お金、地域等々について、自分たちで課題を決めて調べたり解決したり発信したりする。そんな勉強があってもいいと思うんだけどな。ほら、小学校では割りとあるでしょ、そんな授業が。総合的な学習の時間で。

おばさん:確かにそうだね。本来、勉強とはそうあるべきだと思うよ!それは大人になってからも必要とされる力だよ。
国もそう考えていて、次期指導要領では「アクティブラーニング」がキーワードになっている。児童生徒がより主体的・対話的に、深く学べるようにしようとしているよ。そもそももう20年以上前には「生きる力」(自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力。豊かな人間性。健康や体力。)が大切と言われ、それで総合的な学習の時間が誕生したんだ。
大学入試も変わろうとしている。「知識」だけではなく、それを活用する能力、表現力などを含めた広い意味での学力を測るものであるべきだとの議論が長年されていて、2021年からは大学入試センター試験が筆記になるなど大学入試改革が進められているよ。大学もそれぞれがどんな学生をどのように育てるか特色を持つようになり、入試も大学が求める学生像に合わせてより多様化すると思われるよ。

生徒:へえ、そうなんだね。でも、結局高校で勉強しなきゃいけない科目は変わらないでしょ?内容も減らないでしょ?主体的に学ぶ授業って言っても、内容が減らない限り講義スタイルが変わるわけないんじゃない?

おばさん:確かに。おばさんもそう思う。2002年、さっき話に出た「生きる力」が提唱されて「総合的な学習の時間」が始まった時期に、教科の学習内容が削減されたんだけど、基礎学力が下がったと批判があり、削減された分は2011年に結局元に戻ったよ。
私が最近読んだ苫野一徳さん(教育学者)の著書「教育の力」によれば、実際に授業のスタイルが変わるまでには20~30年かかるらしいよ。

生徒:そんなにかかるの?!なぜ?!

おばさん:いろいろな理由があると思う。まず、内容が減らない理由から考えてみると、
1つには、大学側の都合だね。大学は大学で教える内容があるから、高校までに学んでおく内容が減っては困るのだろう。大学もそれこそ競争社会の中で成果を求められているからね。
他には、いわゆる基礎学力は測りやすい学力で、それは数値に表われる。下がれば批判されやすい。それに対して問題発見・解決力、表現力、協同性といったものは測りにくく数値に表わしにくい。伸びたのかどうなのか証明しにくい。

それから、方法が変わらない理由もいろいろあると思う。
さっき話したように、内容が減らないから講義スタイルで一方的にどんどん進めるしかないし、大学入試は変革されるといってもまだ従来のスタイルが主流だから、それに合った授業にどうしてもなるよね。高校も合格率を上げるのに必死だからね。
それに、教員は、自分たちが受けてきた教育、これまでやってきた教育が体にしみついているから、それを変えるにはよほどの研修と動機付けが必要なんだ。けれど現場にはその余力がない。
それから、苫野氏の著書「教育の力」にも書いてあったんだけど、日本の生徒の学力は世界でトップレベルで、格差も比較的少ない。それは学校教育が全国どこでもどの子にも、そこそこ質のよい教育を保障している強固なシステムだからだそうだ。しかしその盤石さゆえに変わりにくいのだそうだ。

けれど、実は100年も前から、主体的・対話的で深い学びが生まれる実践は、海外でも国内でもいろいろと積み重ねられてきているから、それを参考にすれば学校も変わっていくことはできる。急速に変わろうとすると混乱してその割を食うのは子どもたちだから、ゆるやかに、しかし着実に変わっていくべきだし、それは可能だと述べられていたよ。

私は、実は今の学校教育に疑問を感じて、希望をもって前向きに仕事を続ける自信を失っていたんだけど、苫野氏の考えに納得してそれが変わったよ。

生徒:そうなんだね。先生にも葛藤があるんだね。

おばさん:そうだよ。悩んでいるし、強がっているんだよ(笑)
なぜ勉強しなきゃいけないのか、勉強は何のためにするのか、どんな勉強をするべきなのか、どう生きていきたいか。そんな根本的なこと、哲学的な問いについて考えることは大切なことだと思う。だから、大いに悩んだらいいと思う。
おばさんも今頃になってそれを考えているよ。どんな教育がよい教育なのか。学校はなぜ必要か。何をすべきところなのか。それを教員として、親として、改めてじっくり考えておきたくなったんだ。

生徒:へえ~~ 生徒と先生が実は同じようなことで悩んでる。不思議!対立するものではないんだね。生徒と先生と、それから親と、みんなで座談会をしたら意外に意気投合しそう(笑)

おばさん:うんうん。きっと親も、勉強しなさいって言っても伝わらなくてイライラしたり、この勉強は将来どんな役に立つのかと聞かれて、確かにあまり役に立っていないと気づいたり、親なりの悩みがあると思うよ。

生徒:そうだろうね。一緒に悩んだらいいよね。そして一緒に解決策を探していったらいいと思う。
学校が変わるのに20~30年もかかるんだから、それを待っていられない。そんな中で私たちはどんな心構えで、どのように勉強していったらいいのかなあ。
今の教育制度に不満を募らせて学校の勉強を全くしないのは自分が損するだけだろうし、
受験後にすぐに頭の中から消えるような勉強ばかりを嫌々するのももったいない。
そのどちらでもなく融合した「第3の方法」を見出すよ。

おばさん:うん、また話そうね。自分でも考えてみるよ。