日本学術会議「道徳科において「考え、議論する」教育を推進するために」
https://www.kyobun.co.jp/news/20200611_01/
教育新聞の記事です。(会員限定)
小中学校で教科化された道徳について、日本学術会議は6月9日、哲学や倫理学、宗教学などの観点から道徳教育の方向性を検討した報告書を公表した。教科化された道徳教育の問題点を指摘しつつ、哲学的思考の導入やシティズンシップ教育との接続を図り、「考え、議論する道徳」を推進していくべきだと提言した。
そこでネットで探してみると、ありました!
日本学術会議
http://www.scj.go.jp/
この2020年6月9日のところです。
報告「道徳科において「考え、議論する」教育を推進するために」(PDF形式:677KB)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-h200609.pdf
例えば5ページにはこうあります。
道徳教育も、ただ国家の役に
立つ人間とするためだけに用いられた時、教育は民主主義を成立させる成熟した一人ひとりの個人を育てるものではなくなり、憲法で謳われている教育の理念からも離れてしまう。かつて日本が世界に対して犯した大きな過ちを繰り返さないためにも、また、劇的な変化を遂げている世界に対し、国家や民族の枠を超えて貢献をなすことのできる人間を育てるためにも、道徳教育が、国家主義的な、すなわち、個人の人権が「国家の利益」とされるものの前に蔑ろにされるようなものになってはならない。
文部科学省が、ホームページ上で、以上のような回答を明示しているにもかかわらず、なお本分科会が上記のような道徳教育への危惧を表明するのは、教科書などに自己犠牲を美化して推奨するかのような素材が見当たるからである。教科化されるということはそれらの検定教科書を用いなければならないということである。自己犠牲そのものが全て直ちに国家主義に通じるわけでないが、複数の教育学の専門家が指摘しているように、教科書に見当るいくつかの素材には、個人の権利よりも組織(学級)や社会、既存のルールを優先させるかのような考えを推奨してしまう危険性が見受けられる。
絵本の中での擬人化という相応しくない(問題を単純化し、既成道徳に批判的視点なく従うべきことをメッセージとしている)方法によって、自己の伸長を願う者たちを非難し、他者や社会のための自己犠牲を求めるかのような教科書素材が散見される
(小学校の教科書での「かぼちゃのつる」(東京書籍1年生用))、
「手品師」(日本文教出版6年生用)、
それらの素材では、自己と他者の間の不公平や社会制度の不公平の可能性については問題とされずに、現在の状況や慣習・制度が自明視されてしまっている。これでは、自己の不利益を軸に他者や社会を問い直すことはできず、自己と他者・社会とが一方的で非対称的な関係になってしまう。
8ページにはこうあります。
道徳の問題を「心の問題」にしてしまう傾向は、専門用語で「心理主義化」と呼ばれる。心理主義化とは、本来は政治的・社会的・経済的な問題を個人の心の問題にすり替えてしまう操作を指す。例えば、障害者が権利として主張すべきところが、その声を聞くのではなく、健常者の「思いやり」へと問題がすり替えられてしまうといったことである。道徳の心理主義化は、以前の「心のノート」に関する批判でも指摘されていたが、この点はいまだに改善されていないという研究が出ている。こうした心理主義への
傾斜は、元々、日本の道徳教育が「心情主義」、すなわち、国語教育における心情理解に近い方法論を伝統的に取ってきたことから来ているかもしれない。
……その後の各項目も、示唆に富んでいます。
私の好きな苫野一徳氏の主張についても触れられていますね。
我々、道徳教育の指定を受けてから日々道徳のことを考えています。そうなるとつい「指導要領解説が全て」みたいになりがちなのですが、
こういう時こそ、広い視野をもって研究にあたらねばと改めて気付かされました。
目次の一部を掲載します。
現在の道徳教育の四つの問題点
(1)国家主義への傾斜の問題
(2)自由と権利への言及の弱さの問題
(3)価値の注入の問題
(4)多様性の不十分さへの危惧
よりよい道徳教育のための四つの展望
(1)哲学的思考の導入
(2)シティズンシップ教育との接続
(3)教員の素養と教員教育
(4)教科書の検討と作成
…毎日バタバタして、月額有料の「教育新聞」もたまにしか読まないけれど、こういう記事に出合わせてくれるからやめられないんですよね〜